大江広元は鎌倉幕府の創設に関与した鎌倉初期の鎌倉御家人です。広元はもともと中原氏(養家)を称した平安末期の朝廷の下級官吏でしたが、兄の中原親能が早くから源頼朝に仕えて朝廷との交渉にあたっており、この縁により広元は元暦元(1184)年頃 鎌倉に下向したとされます。そして鎌倉に下向した広元は「公文所」(後の「政所」)の別当をつとめ、主に朝廷との交渉にあたったとされます。また文治元(1185)年、頼朝が設置した「守護、地頭」は広元の献策によるものとされます。正治元(1199)年、頼朝が死去し頼家が将軍職を継承すると 広元は頼家の政務の補佐にあたりましたが、同年 幕府の運営は親能、広元兄弟を含む有力御家人による「十三人の合議制」(「評定衆」の前身組織)に移行しました。承久3(1221)年、「承久の乱」が勃発すると広元の嫡子 「京都守護」 民部少輔親広は朝廷方に加担しましたが、広元は鎌倉にとどまって幕府主戦派に同調しています。死没は嘉禄元(1225)年六月十日。墓所は鎌倉市十二所の山中に本来の墓である五輪塔が、また山形県西川町阿弥陀堂屋敷(「寒河江荘」吉川)に親広が広元の遺骨を納入した阿弥陀如来が安置されていたようです。
毛利季光は大江広元の四子で鎌倉初期の鎌倉御家人、「評定衆」のひとりです。季光は広元から所領のうち相模国「毛利荘 |

大江広元肖像画 |
」を宛がわれ「毛利」を称しました。承久3(1221)年、「承久の乱」が勃発すると季光は幕府軍に参陣して軍功をあげ、この功により安芸国「吉田荘」の地頭職に任ぜられました。しかし宝治元(1247)年、執権 北条義時と有力御家人 三浦泰村の対立から「宝治合戦」が勃発すると季光は正室の実家である三浦方に加担して敗北を喫 し鎌倉法華堂で自害したと伝えられます。なお毛利一族はこの「合戦」により越後に残った季光の四子 経光の家系を残して族滅し、経光の家系は後に安芸国「吉田荘」に下向して安芸毛利氏の祖となります。季光の死没は宝治元(1247)年六月五日。(場所はココです) |
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