島津忠久は鎌倉初期の鎌倉御家人です。忠久は平安末期の下級官吏 惟宗広言の嫡子とされ、もともと「摂関家」に仕える家人でした。(忠久の出自に関しては諸説あります) 治承ー養和年間(1177-82年)頃、忠久は母の丹後内侍が源頼朝の乳母 比企尼の長女だった縁で頼朝を頼って鎌倉に下向したと推測され、その後 忠久は平家征討軍に参加し、文治元(1185)年 「摂関家領 島津荘」の下司職、地頭職に任ぜられています。建久8(1197)年、忠久は薩摩、大隅二ヶ国の守護職に任ぜられると「島津荘」を本貫地に島津を称するようになりました。しかし建仁3(1203)年に勃発した「比企の乱」に連座して大隅、薩摩、日向三ヶ国の守護職を剥奪され、この頃 忠久は京に拠したとされます。その後、忠久は建暦3(1213)年、三代将軍 実朝の学問所番になっており この頃、御家人に復帰したものと思われます。また同年、執権 北条義時と侍所別当 和田義盛の対立から「和田の乱」が勃発すると忠久は北条方に加担し、乱後 薩摩国の守護職に復帰したとされます。なお島津氏が薩摩に下向、土着したのは忠久の嫡孫 修理亮久経の代とされます。死没は嘉禄三(1227)年六月十八日。(場所はココです)
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