越中南部の庄川中流域は標高1000mを越える山々と庄川の峡谷に囲まれた陸の孤島で、古くから五箇山(赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷)と呼ばれています。五箇山の初源は平安末期、「倶利伽羅峠の戦」に敗れた平家の残党が隠れ住んだとも、また南北朝期 南朝方の勢力により開拓されたとも伝えられています。五箇山の史料上の初見は戦国初期、本願寺9代門主 実如の書とされ、この頃 五箇山は越中一向一揆勢力の影響下にあったものと思われます。またこの地は日本有数の豪雪地帯で、このため傾斜の急な屋根を持つ合掌造りの家屋が生まれました。五箇山の主要産業は養蚕や紙漉き、塩硝など、江戸期には米で年貢を納めることができず、商品作物を換金して年貢を納めていました。また江戸期、この地は加賀前田藩の流刑地が置かれていました。 |