弓 庄 城
富山県中新川郡上市町舘
立地・構造
 弓庄城は富山平野の中央東縁、白岩川右岸の河岸段丘上(比高10−20m)に築かれた平城(平山城?、崖縁城?)で、段丘崖縁部に南北600m×東西150mにわたり構築された連郭構造の城郭です。城縄張りは中央部に主郭を置き、主郭の北側に二の郭、三の郭を、南側に南郭を配し、各郭間は堀で分断されていたようです。(各郭の規模は不明) 城域の東側は丘陵続きになっていますが、ここには水路を堰き止めて普請した濠が穿たれ、また西側の段丘崖下にも土塁で構築された濠が敷設されていたようです。現在、城址は圃場整備事業で水田になっていますが、発掘調査から土塁、濠祉、井戸祉、掘立柱建物祉等が確認され、町屋を含む「惣構」の城郭と想定されます。なお弓の里歴史文化館に弓庄城の復元模型が展示されています。

 築城時期・築城主体ともに不明。城主とされる土肥氏は相模国「土肥郷」から発生した桓武平氏良文流で、治承4(1180)年の源頼朝の挙兵に参陣した土肥次郎実平を祖とします。「土肥氏系図」によると実平から五代目の実綱の弟 頼平が建長年間(1249−56年)頃、越中国「堀江荘」の地頭職としてこの地に入部したのが越中土肥氏の初源と伝えられます。 南北朝期、土肥氏は「堀江荘」から井見()荘」に進出して次第に新川郡西部に勢力を拡大し、室町期までに越中の有力な国人領主に成長したものと思われます。室町期、土肥氏は外様として越中国守護職 畠山氏に出仕しましたが、永正17(1520)年 越後国守護代 長尾信濃守為景が越中に侵攻以降は長尾氏に従属することとなります。戦国末期の城主 土肥美作守政繁もまた天正4(1576)年の上杉謙信の「能登侵攻」に参陣するなど上杉氏に加担しましたが、同6(1578)年に謙信が死去すると織田信長に誼を通じました。同10(1582)年、信長が「本能寺」で横死すると政繁がふたたび上杉と結んだため、同年 弓庄城は佐々内蔵助成政の攻撃にさらされました。そして政繁は上杉氏の後

弓庄城復元模型(左が北方向)
詰を頼り籠城を続けましたが、上杉の拠点 魚津城が落城したため、佐々成政と和睦して越後に落ち延びました。同12(1584)年、「小牧長久手の戦」が勃発すると佐々成政は徳川家康と結んで羽柴方の前田利家と対峙します。そして政繁は上杉軍の先鋒として越中に侵入しましたが、羽柴・徳川の和議が成立したため越後への退却を余儀なくされ、以後 旧領を回復することはありませんでした。
歴史・沿革
弓庄城 城址碑
メモ
鎌倉御家人 土肥氏庶流の館城
 形態
平城(平山城?、崖縁城?)
 別名
・・・・・・・・・ 
 遺構
郭(平場)・堀祉
場所
場所はココです
駐車場
弓の里歴史文化館の駐車場借用
 訪城日
平成17(2005)年9月7日
弓庄城址は現在、圃場整備事業により一面の耕作地に改変されているため城址の雰囲気はまったくありません。(写真左上ー北側からの近景 写真右上ー内部) 西側に見られる段差が唯一の遺構といえば遺構なのでしょう。(写真左) 往時、段丘崖の下には土塁で区画された濠があったようですが ・・・・・・・・・、ハッキリしません。でっ、現在 主郭の中央南端?に城址碑が建てられ(写真左下)、北側には堀祉と思われる水田が見られます。(写真右下) 堀の規模は幅10m前後、本来はもっと深かったのでしょう。
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