|
小沢田館は小阿仁川中流域の左岸、七倉山(標高200m)から南方向に延びた稜線ピーク(比高110m)に築かれた山城です。規模は東西100m×南北250mほど、西側に沢が切り込み、東側は急傾斜の自然の要害、北側の稜線を堀で断ち切って城域を独立させています。ピークに構築された主郭は東西50m×南北40mほど、現在 七倉神社が祀られています。大手筋は南麓からのルートが想定され、途中の稜線に平場が確認できます。同地は小阿仁川上流域方向を見下ろす高所に位置し、恒常的な居住性は認められず、有事の際の「詰の城」、物見砦として使用されたものと思われます。
築城時期・築城主体ともに不明。『秋田沿革史大成』に「古城あり、村より西の山にあり、沖田面より移りて加成三七居、落城して後、天満宮を本丸に移す」と記され、加成三七が沖田面ウトヒラ館から移り住んで拠したとされます。加成三七は文禄元(1592)年、慶長6(1601)年の『秋田城之介分限帳』に百九十二石の「三分一代官」と記された人物で、阿仁郡を実質支配していた米内沢城主 嘉成氏の庶子家と推測されます。嘉成氏の出自については陸奥葛西氏の庶子説、在地から発生した勢力説、安東政季に従って河北(米代川中下流域)に入部した安東氏の譜代説がありはっきりしませんが、戦国期
阿仁川、小阿仁川流域に庶子家を派生して勢力を拡大した国人領主と思われ、戦国末期の檜山安東愛季の代にその支配下に組み込まれたものと思われます。嘉成氏の初見は『聞老遺事』(『南部叢書』)に記された「十月十五日、秋田愛季の家老 大高主馬は比内、阿仁、松前、由利、鹿角内応の郷士六千余人を率い谷内城を囲み撃ち ・・・・・」の一文で、この文中の阿仁が嘉成氏を指すものとされます。その後も嘉成氏は安東氏の軍役を担い、天正10(1582)年の「荒沢合戦」、同15(1587)年の「唐松野の戦」では安東軍の侍大将として賀成播磨の名が伝わっています。同16(1588)年に勃発した「第二次 湊騒動」で安東実季は檜山城に籠城しましたが、この際 嘉成一族は比内から阿仁に侵攻した南部勢と対峙しています。(「米内沢塚の台の戦」) この戦で嘉成常陸介資清、同右馬頭貞清、同十郎兵衛尉、阿仁播磨、同右兵衛尉等が「阿仁衆」の主力となり、南部軍を率いた萱森判官を討死に追い込み 南部軍を撃破しました。そしてこの戦に加成三七も参陣したものと思われます。慶長7(1602)年、安東実季が常陸へ転封を命ぜられると加成三七はこれに同道せず帰農し、この際 小沢田館は廃されたものと思われます。 |