花 沢 館
北海道檜山郡上の国町勝山
立地・構造
 花沢館は日本海に面した上ノ国平地の南西部、天の川左岸の南から北方向に張り出した丘陵先端(比高50m)に築かれた山城です。城の規模は東西80m×南北200mほど、城縄張りは南北に細長い頂部稜線を主郭に北側斜面に段郭群を敷設したシンプルな階郭構造で構築され、背後(南側)の稜線を堀切で遮断して城域を独立させています。郭の規模は主郭が東西15−20m×南北50m、中腹の平場が東西60m×南北10−15mほど、大手筋は北麓からのルートが想定され、導線を守備、監視するように小郭が設けられています。全体的に規模は小さく、また要害性は薄いで
花沢館 概念図
すが、基本的には日常居館を兼ねた要害として築かれたものと推測されます。また勝山館を機能補完した支城、砦とも。

 築城時期・築城主体ともに不明。通説では14世紀末ー15世紀初期頃、蝦夷地道南に渡った和人(「渡り党」)によって築かれた「道南十二館」のひとつとされ、館主は下国安東氏の代官 「上の国守護」 蛎崎氏と伝えられます。蛎崎氏はもともと十三湊安藤氏の被官でしたが、安藤氏が南部氏に圧迫されて蝦夷地に追われると、蛎崎氏もこの地に逃れてきたと伝えられます。長禄元(1457)年に勃発した「コシャマインの乱」の際、館主の蛎崎季繁は客将の武田信広とともに花沢館を守り抜き、乱を鎮圧しました。乱後、信広は季繁の娘婿になり、「上の国守護職」を譲れられると新たに洲崎館勝山館を築いて本拠を移し、この際 花沢城は廃城になったものと思われます。
歴史・沿革
花沢館 主郭背後の堀切
メモ
「道南十二館」
「上の国守護」 蛎崎氏の館城
形態
山城
別名
・・・・・・・・ 
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・堀
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成16(2004)年 6月25日 平成23(2011)年10月13日
花沢館は天の川の南岸、南から北方向に張り出した丘陵突端に築かれた山城です。(写真左上) でっ、北麓の車道沿いに標柱が建てられていて、ここから山道が設けられています。(写真右上) 山道は北側に張り出した段郭群の北⇒西側を迂回するように設定されています。(写真左ー段郭群 写真左下ー東側の導線) 段郭群の規模は東西15m×南北40mほど、1−1.5mの段差で仕切られた三段の段郭群に加工され、導線はじきに中腹の平場の虎口に辿り着きます。(写真右下)
中腹の平場は東西60m×南北10−15mほど、城内最大の平場で、基本的には城主の日常の居住スペースだったのでしょう。(写真右上) でっ、北側下には1−1.5m切り落として幅5m前後の帯郭が敷設されています。(写真右上)
中腹の平場と主郭間との高低差は20mほど、この間の導線は北西隅からのスロープ状の導線構造になっていて、側面は三段の段郭群に加工されています。(写真右・左下ー北西側からのスロープ導線 写真右下ー段郭群)
(写真左上) 中腹から主郭方向、一応 段が確認できます。
三段の段郭群の上部はさらに帯郭に加工され、ここからさらに2段の小郭が敷設されています。(写真右上ー下段の帯郭) 下段の規模は幅6ー7mほど、でっ 中段と下段間の切岸は4−5mほど、なぜか2方向に導線が敷設されています。(写真左)
(写真左下) 中段、規模は幅4−5mほど、上段との段差は2−2.5mほど。
(写真右下) 上段、規模は東西10m×南北6−7m、主郭との段差は1mほど、基本的には虎口受けの郭なのでしょう。
主郭(写真左上・右上)
規模は東西15−20m×南北50mほど、居住性は感じられず、ま〜〜〜 監視、物見等の性格があったのでしょう。内部は意外に削平されておらずケッコウ凹っていますが、東・西側は急斜面の自然の切岸になっています。でっ、南側縁部には高さ50cmの低めの土塁が築かれ(写真右)、外側は幅10m×深さ4−5mの堀切で断ち切られています。(写真左下) 全体的に古い形態がプンプンします。でっ、主郭から堀を挟んだ南西側側面には人工的に加工されたと思われる段々の削平地が見られます。(写真右下) 段差は1mほど。
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