月 岡 城
山形県上山市元城内(月岡公園)
立地・構造
 月岡城は村山盆地の南端、前川左岸の低丘陵上(比高20m)に築かれた丘城(平山城)です。城の規模は東西300m×南北250mほど、内部は堀で仕切られた東ー中ー西の3郭とこれに付随した郭群からなり、外縁部に堀(濠)が巡らされていたようです。このうち中心郭が本丸(中世の主郭)、二の丸(中世の二の郭)に相当し、規模は東西80m×南北100mほど、北側の本丸に現在、月岡神社が祀られ、南側の二の丸に模擬天守が建てられています。堀を挟んだ東
側の郭は東西80m×南北70mほど、内部は低い段差で南北に3段に加工されています。(往時の遺構かは不明) なお城内に天守は設けられず(土岐氏時代に三層の天守を破却)、二の丸に居館、主殿舎が建てられていたようです。同地は村山から置賜に繋がる羽州街道と白石に向う七ヶ宿街道が交錯する交通の要衝に位置します。

 南北朝期の延文元(正平11)(1356)年、出羽国司按察使として山形に下向した斯波式部丞兼頼の曾孫 最上満長は応永年間(1394−1428年)頃 最上惣領家から上山に配され 満長は支配拠点として虚空蔵山に高楯城を築きました。戦国中期、伊達氏がたびたび最上領に侵攻し、永正5(1508)年 高楯城は伊達勢の攻撃を受けて落城し、城主 上山(武衛)義房は高楯城から遁走しています。さらに永正11(1514)年、高楯城桑折西山城主 伊達稙宗の攻撃を受けて落城し、伊達氏の被官 小梁川真範が城代に据えられました。その後、最上・伊達の和議により高楯城は上山氏に戻されましたが、永正17(1520)年 上山義房は伊達氏に叛旗を翻したため伊達勢の猛攻を受けて討死しました。そして天文4(1535)年、義房の嫡子 武衛義忠により高楯城は奪還されましたが、同年 義忠は高楯城を廃して天神森に新たに城を築城しました。これが上山城月岡城)になります。天正2(1574)年、「天正最上の乱」(最上義守VS義光の内訌)が勃発すると武衛満兼は当初、義光方に加担しましたが、その後 義守方に寝返り、このため以後 満兼は「天童八楯」と結んで ことあるごとに義光と対立するようになります。しかし同8(1580)年、上山氏の一族 里見民部が最上義光の調略を受けて内応し、このため上山城は落城し満兼は討死しました。そして里見民部が上山城主となりましたが、元和8(1622)年 「最上騒動」により最上氏は改易となり、その後 上山に能見松平氏ー蒲生氏ー土岐氏ー金森氏が入封し、上山城自体は土岐氏の時代に幕府の命により破却されたと伝えられます。その後、入封した金森出雲守頼時の代に頼時は二の丸に館を構えたとされます。そして元禄10(1697)年、頼時は美濃国郡上に転封となり、代わって上山へ備中国庭瀬から松平(藤井)中務少輔信通が入封し、藤井松平氏が明治維新まで在城しました。なお藤井松平氏は「戊辰の役」の際 当初、「奥羽列藩同盟」に加担しましたが、のちに新政府軍に恭順しています。明治6(1873)年、 太政官達「全国ノ城廓陣屋等存廃ヲ定メ存置ノ地所建物木石等陸軍省ニ管轄セシム」により廃城。
歴史・沿革
月岡城 模擬天守
メモ
中世 ー 最上氏の庶流 上山(武衛・里見)氏の館城
近世 ー 上山藩の藩庁
形態
近世 平山城
別名
 上山城
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・堀祉・模擬天守
場所
場所はココです
駐車場
月岡公園駐車場
訪城日
平成18(2006)年9月23日 平成19(2007)年11月5日
月岡城は上山市街地の小丘陵に築かれた丘城(平山城)です。現在、城址は「月岡公園」として整備され模擬天守が建てられていますが 、天守は史実ではこの場所に存在しません。(写真左) 城域は大きくは東・中・西の3郭からなり、堀で仕切られていました。(写真右上)
本丸(写真左下) 規模は東西80m×南北50mほど、現在 月岡神社の境内になっています。南側の二の丸とは堀で仕切られていたようです。(写真右下ー確信はありませんが) 
でっ、本丸の周囲は高さ1,5−2mの土塁が巡らされていますが、これは中世の武衛・里見氏時代のものなのでしょう。(写真右上) 土塁にいくつか虎口らしき切り込みがありますが、どれが本来の虎口かは不明。(写真左上ー南側の虎口?) でっ、内部に寛永5(1628)年、上山藩主 土岐山城守頼行が沢庵禅師に依頼して作庭した土岐灯籠と呼ばれる庭園祉が残っています。(写真右)
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