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神 宮 寺 館 |
秋田県大仙市(旧神岡町)神宮寺字舘ノ内 |
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神宮寺館は仙北平野の北西部、雄物川右岸の微高地(比高2−3m)に築かれた平城です。館の規模は東西170m×南北70mほど、内部は1mの段差で区画された東西の2郭構造になっていたようです。基本的にこの地に根ざした村落領主の日常居館と思われます。 |
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築城時期・築城主体ともに不明。菅江真澄の『月の出羽路』によると正慶年間(1332−33年)頃、小野寺信道の三男 道珍がこの地に移り住み神宮寺藤七を称したとも。戦国末期、 大曲城主 前田薩摩守利信の弟 又三郎が神宮寺氏に入嗣して神宮寺掃部を称したとされます。また『久保田領郡邑記』に「古城ハ邑ノ東平地ニアリ、田トナレリ、厩田トイフ、田ノ底ノ泥中ニ厩ノシキ板朽ズシテ有トイフ、神宮寺掃部トイフモノ居セリ、秋田城之助実季峰ノ山合戦ニ討死シテ亡フトイフ」と記され、神宮寺掃部は天正16(1588)年 戸沢氏に加担して「峰の山合戦」に参陣し討死したとされます。 |
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仙北の在地領主 神宮寺氏の館城 |
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平城 |
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神宮寺掃部館 |
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郭(平場) |
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場所はココです |
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農道に路駐(路側帯あり) |
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平成26(2014)年5月6日 |
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神宮寺館は雄物川の北岸、神宮寺地区東方の微高地に築かれた平城です。(写真左上ー南東側からの遠景) でっ、館祉の周囲は水田地帯になっていますが、館祉は周囲より2−3m高い微高地に位置します。(写真右上ー北側の塁線
写真左ー西側の塁線 写真左下ー南側の塁線 写真右下ー東側の塁線) |
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館の規模は東西170m×南北70mほど、内部は相当 広い平場になっていて(写真左上)、1m弱の段差で区画された東西の2段構造になっています。(写真右上)
ま〜〜〜、明確な城郭遺構は見当たりませんが、南西隅に史跡標柱が建てられています。(写真右) |
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