宗 晴 康 の 墓 所
長崎県対馬市(旧上対馬町)上対馬町西泊
 宗讃岐守晴康は対馬宗家の庶子家 「豊崎郡司」 宗盛俊の子として16世紀初期 誕生しました。当初、晴康は仏門に入っていましたが、天文8(1539)年 宗家十五代当主 刑部少輔将盛が家臣団の叛乱により当主の座から追われると 、家臣団の推挙を得て宗家十六代当主となりました。そして晴康は天文15(1546)年、島内に盤踞していた庶子家 三十八家に対して宗姓の使用を禁じ、惣領家の領国統治を強化して宗氏を戦国大名に変貌させました。また晴康は対馬の主穀である麦の生産奨励、検地の実施、軍役の強化等を図り、「宗家中興の主」と称されています。天文22(1552)年、晴康は嫡子の刑部少輔義調(よししげ)に宗家の家督を譲ると、西泊に退去して西福寺に屋敷を構えて隠棲し、永禄6(1563)年 この地で逝去したと伝えられます。なお『津島記事』の西福寺の項には「宗晴康之菩提寺也」「天文二十二年晴康退休し 西福寺を修復し館となす」と記されています。また晴康の墓石とされる宝篋印塔は晴康逝去以前 
宗晴康肖像画
に建立され、のちに晴康の墓碑に転用されたものと推測されています。(場所はココです)
宗晴康の墓碑 
宗晴康の墓碑 
西福寺 
正式名称は「富嶽山 西福寺」。宗派は天台宗、御本尊は阿弥陀如来。創建時期は不明。
比田勝湾