大 塩 中 山 城
福島県大沼郡金山町大塩字中山、字上平、字要害山
立地・構造
 大塩中山城は只見川の中流域、大塩地区北方の通称 要害山(標高564m 比高220m)に築かれた山城で、ピーク部に構築された主郭主郭南西側中腹の「根小屋」二の郭?)からなります。主郭の規模は30−40m四方ほど、西ー南側下に3−4mの段差で区画された帯郭が巻かれ、南側尾根(大手筋)から土橋状のスロープで繋がっています。東側に搦手と思われる虎口郭(腰郭)が敷設され、搦手が想定される南東側尾根に繋がっています。また南西側中腹に構築された「根小屋」は西側を急峻な断崖で区画された相当 広い空間ですが、内部は削平も甘く、かなりデコボコしています。東側に堀らしき形状や南側に水の手?と思われる巨大な窪地も確認できます。主郭の規模が小さいため、基本的に居住空間と想定されます。大手口は南西麓、搦手口は南東麓とされ、それぞれピークから馬蹄状に延びた尾根に沿って導線が敷設されていたと思われます。郭自体は山塊に比べて小規模なものですが、要害山自体 巨大な山塊になっていて、南側に延びた支尾根は複雑に曲折し、西ー北ー東側は急峻な断崖で守備された自然の要害です。

 築城時期・築城主体ともに不明。『会津古塁記』大塩村中山城 東西七十二間 南北八十一間 建仁二年壬戌 横田氏築く。天正之頃 菅家太郎左衛門居る」と記され、また『会津四家合全』によると大塩中山城は横田山内氏領を守備する「山之内固城六ヶ城」(他に水久保城和泉河原崎城梁取城、漆峠杉山城、布沢城)に数えら、城代として横田山内譜代の菅家太郎左衛門善高の名が伝えられています。天正17(1589)年、「摺上原の戦」で蘆名義広を敗り会津盆地を制圧した伊達政宗はさらに奥会津へ侵攻を開始します。このため横田中丸城主 山内刑部大輔氏勝は横田中丸城に籠城して伊達軍に抵抗しましたが、横田中丸城では持ちこたえられないと判断し、自身は水久保城に移り、大塩中山城に譜代の菅家善高を配して伊達軍に抵抗を続けました。しかし同18(1590)年、「奥州仕置」により横田山内氏は所領没収 改易となり、会津に蒲生氏郷が入封し、大塩中山城はこの際 廃城になったものと思われます。
歴史・沿革
大塩中山城 主郭南側の帯郭
メモ
「山之内固城六ヵ城」 横田山内氏の支城
形態
山城
別名
大塩村中山城・要害山
遺構
郭(平場)・虎口・水の手?
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成20(2008)年11月6日
大塩中山城は只見川の左岸、大塩地区北側の通称 要害山に築かれた山城です。(写真左上) 丘陵の西側に滝沢川が、東側に関ノ入沢が切り込み、独立丘陵のような体裁になっています。でっ、城へは南西麓と南東麓(宇奈多理神社)から登山道(往時の城道?)があり、南西麓が大手口と伝えられます。(写真右上ー南西麓の登り口 写真左ー南東麓の宇奈多理神社) 管理人は南西麓からアプローチし(写真右上ー登り口)、登山道をドンドン進みます。(写真左下・右下)
「根小屋」(写真左上) 山頂部(主郭)の南西側中腹の平場。西側が急峻な断崖で区画された平場です。内部は削平も甘く、かなりデコボコした空間ですが、相当広く 堀らしき形状や水の手と思われる巨大な窪地も確認できます。(写真右上)
「根小屋」からは登山道が消滅しているため、管理人は20−30mほど直登して南西側の稜線に取り付きました。尾根筋からは南東2kmにある横田山内本城の横田中丸城が眺望できます。(写真右) でっ、尾根を北方向に辿ると副郭の切岸が見えてき(写真左下)、切岸を攀じ登ると主郭の周囲を囲った帯郭(犬走?)になります。(写真右下)
主郭(写真左上) 規模は30−40m四方ほど、西ー南側下に3−4mの段差で区画された帯郭(副郭)が巻かれ(写真右上ー西側の帯郭)、南東側尾根から土橋状のスロープで繋がっています。(写真左) 東側にも1段 腰郭が敷設されていますが、これは搦手の虎口郭と想定され南東側尾根に繋がっています。(写真左下) でっ、管理人は搦手が想定される南東側尾根を利用して下山し(写真右下)、ヘロヘロになりながら南東麓の宇奈多理神社に辿り着きました。
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