玉 縄 城
福島県大沼郡金山町川口字梵天山
立地・構造
 玉縄城は只見川の中流域、只見川と野尻川が合流する金山谷川口の西側丘陵上(通称 ボンデン山 標高484m 比高180m)に築かれた山城です。城山の東・西側は急斜面の断崖、南側は尾根を分断した堀切で遮断して城域を区画しています。城の規模は東西200m×南北500mほど、城縄張りは南端ピークに構築された主郭を中心に北側稜線に二の郭ー三の郭ー四の郭ー出丸を連郭式に敷設したシンプルな構造になっています。主郭の規模は東西30m×南北40mほど、南側縁部に高さ2mの土塁が築かれ、外側(南側)は急斜面を7−8m切り落とした堀切で処理されています。二の郭は主郭の虎口を守備する馬出郭です。内部は東西の2段構造になっていて、下段が導線、上段が下段を監視する郭だったと思われます。三の郭は東西40m×南北90mほど、城内最大の平場で、この郭から北東側方向に搦手筋が想定されることから、実質的な主郭と思われます。四の郭は15−20m四方ほどの小郭で、北側からの大手筋を防御・監視する前衛陣地だったのでしょう。さらに四の郭から
現地説明板の図(下が北方向)
北側下には出丸と思われる小郭が1 段 敷設され、北側の大手筋に繋がっています。各郭間は高い切岸と堀を主体とした防御構造になっていますが、主郭・二の郭間、二の郭・三の郭間は空堀土橋で繋がっています。注目すべきは三の郭から二の郭に繋がる導線構造で、導線は下部に設けられた桝形で大きくクランクさせられ、その後 比高差20−30mの急斜面を直登するように設定された特異な形態になっています。同地は「伊北街道」が城の南側を通る要地になっていて、南側の稜線ピークに構築された西谷雀ヶ城とともに「伊北街道」を封鎖する要衝に位置します。

 天文12(1543)年、奥会津 「伊北郷」に侵攻した会津黒川城主 蘆名遠江守盛舜を撃退した(「横田くずれ」横田中丸城主 山内治部大輔俊清は翌年、蘆名氏との関係修復のため嫡男の兵部大輔舜通に家督を譲ると、金山谷川口に玉縄城を築き 末子の治部左衛門尉俊甫とともに移り住みました。この頃、会津山内氏は嫡流 横田山内氏を中心とする惣領制が崩れ、庶子家の野尻山内、沼沢山内が惣領家と拮抗する状態となり、俊甫の川口山内氏もまた俊甫の嫡子 俊満の代には山内家最大の勢力に成長しています。川口山内氏の詳細な事績は不明ですが、嫡流の横田山内氏とともに蘆名氏と同盟関係にあったと思われます。天正6(1578)年、西方鴫城主の山内右近大夫重勝が野沢の大槻太郎左衛門政通と謀って蘆名修理大夫盛氏に叛いた際、川口(山内)盛俊は蘆名方に加担して大槻政通を自害に追い込んでいます。同17(1589)年、伊達政宗が会津への侵攻を開始すると川口俊安は惣領 山内刑部大夫氏勝とともに蘆名義広を支援するため黒川に出陣しましたが、黒川に到着した時には「摺上原の戦」は伊達軍の勝利で終結し、このため氏勝は沼沢、野尻、川口氏が主張する伊達氏への降伏を余儀なくされました。しかし氏勝が沼沢、野尻、川口氏に無断で伊達軍との戦端を開いたため、政宗は山内庶子家を道案内に横田への侵攻を開始します。同18(1590)年、小田原の役」後の「奥州仕置」で政宗は会津の所領を没収され、このため川口俊安もまた米沢に移ったとされ、玉縄城はこの際 廃城になったものと思われます。なお『会津古塁記』には「大沼郡金山谷川口玉縄城、前鳥山城と云ふ。前に記せる伊北横田中丸城主 山ノ内治部太輔俊清之五男治部左衛門俊甫 天文十二甲辰 金山谷川口村鳥山ノ城を築き玉縄城と号す。本丸 東西二十八間 南北四十九間、二ノ丸 東西四十三間 南北百八間 城中に水あり、西に只見ノ大河あり。麓より登路は町南嶺続き小栗山向ひ西谷ノ雀ヶ峯まで相続く。東ノ方は野尻川眼下にあり。岩岨の高さ十丈ばかりなるべし。只見川と合する故をもって川口と号す。常に住する所は村の上にあり。舘ノ内と云ふなり。方一町あり。又 雀峯柵を設け、聟宮崎左近を置く。六ヶ年住み廃す。俊甫之子 川口左衛門佐俊満 天正十七年伊達政宗に降参す。同十八年庚寅七月十三日に仙台に行き白石に住す。片倉小十郎に仕ふ。子孫白石にあり。」と記されています。
歴史・沿革
玉縄城 二の郭の虎口
メモ
「山之内七騎党」 川口山内氏の要害
形態
山城
別名
川口城 ・前鳥山城
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・桝形・
土橋・堀
場所
場所はココです
駐車場
登口に駐車スペースあり
訪城日
平成20(2008)年11月6日
玉縄城は只見川と野尻川の合流点の西側丘陵ピークに築かれた山城で、南北に細長い稜線を城域としています。(写真左上ー北東側からの遠景) でっ、城へは野尻川に接っした案内板のある場所から山道が設けられています。(写真右上) 登り口はわかりずらいですが、案内板のある場所の上に3軒の民家があり、この民家の間に登り口があります。(写真左) でっ、登山道を登り切ると出丸と思われる小郭に辿り着きます。(写真左下ー現地表示は二の丸) さらに出丸から約30mほど崖を登ると削平の甘い平場が現れます。(写真右下ー四の郭) 規模は15−20m四方ほど、西・東側には帯郭が敷設され、北側に1段 低く虎口空間が設けられています。
三の郭(写真左上)
四の郭とは谷地地形で狭められた痩尾根で繋がっています。規模は東西40m×南北90mほど、相当数の兵の収容が可能な平場です。削平状況も良好、西・東側には帯郭が(写真右上ー東側の帯郭)、西側縁部には高さ1−1.5mの土塁が築かれています。でっ、三の郭から二の郭へは幅5−6mの堀にかけられた土橋を渡り(写真右)、導線は右にクランクし、さらに左にクランクします。(写真左下) 虎口前面には土塁が築かれ、左にクランクした導線は約20mの急斜面を直登するように設定されています。(写真右下) このような「直登導線」横田中丸城でも見られ、山内氏の築城法の特徴と思われます。
二の郭(写真左上)
「直登通路」を登り切った郭で、規模は10−15m四方ほど。内部は東西2段に加工され、下段部分が通路として利用され、上段がこれを扼する機能があったのでしょう。(写真右上) ま 〜〜〜、主郭の虎口を守備する馬出のようなものなのでしょう。でっ、主郭とは幅4−5mの堀で画され土橋で繋がっています。(写真左)
主郭(写真左下)
規模は東西30m×南北40mほど、南側縁部に高さ2mの土塁が築かれています。(写真右下) 内部はかなり凸凹しており、削平状況はそれほどよくないようです。どちらかというと居住より監視機能が優先されたと思われます。
主郭の南側下には7−8m切り落として横堀が敷設されています。(写真左上) でっ、堀の端部は掘り切らず土橋状に残しています。
 
玉縄城から野尻川を挟んだ東麓には川口氏館が構えられていました。(写真右上) 館は野尻川右岸の断崖上(比高15−20m)に築かれ、周囲には家臣屋敷地を含む「根小屋」が形成されていたのでしょう。また往時、玉縄城へは舟で繋がっていたのでしょう。玉縄城からの下山が遅かったため館祉は未訪城。主郭から見下ろすと館は樹木で遮られ見えませんが、馬場と伝えられる小学校のグランドが見えます。(写真右)
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