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丸山城は沼沢湖の南東隅、沼沢湖に張り出した小丘陵に築かれた「居館」と背後(南東側)の稜線尾根上に築かれた「要害」からなる「根小屋式城館」です。このうち「居館」は沼沢湖に突き出した小丘陵を城域とし、規模は東西150m×南北50mほど、内部は東から西側にかけて3段の段郭群に加工されています。(往時の遺構かは不明?)
現在、館祉に沼御前神社が祀られています。往時、館の北・南側に沼沢湖が入り込む要害地形を利用したものと思われ、大手筋は東側の向地区に繋 |
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がるルートと想定されます。(「要害」部は未訪のため不詳)
丸山城は享禄4(1531)年、「会津四家」 横田山内氏の一族 山内権大輔俊安と嫡子の彦次郎俊興が沼沢に進出して築き、以後 沼沢氏を称したとされます。横田山内氏はもともと横田中丸城を拠点に「山内七騎党」と称される庶子家を領内に配して惣領支配していましたが、天文年間以降 山内氏の惣領体制は崩れ 沼沢山内氏は惣領 横田山内氏と並ぶ存在と認識され、沼沢出雲守は独自に会津黒川城主 蘆名遠江守盛舜、修理大夫盛氏父子に出仕していたとされます。天文12(1543)年、蘆名盛氏は山内氏討伐の兵を「伊北郷」に差し向けましたが、この際の沼沢氏の動静は不明。(「横田崩れ」) 天文14(1545)年、沼沢出雲守政家(俊興の嫡子か?)は弟の左馬助氏信を領内 西方に配して鴫ヶ城を築いたとされます。永禄元(1558)年、惣領 横田山内俊清の次男 摂津守俊政と三男 豊前守俊範が蘆名氏支配下の滝谷岩谷城を不意に攻撃して奪取する事件が勃発します。この報を聞いた蘆名盛氏は激怒して俊政、俊範兄弟討伐の兵を動かそうとしましたが、黒川城に居合わせた沼沢出雲守政清(実通、重通とも?)の計らいにより兄弟は赦され、蘆名氏の配下に組み込まれたとされます。その後も沼沢氏は蘆名氏に従属し、天正6(1578)年
庶子家の西方 山内右近大夫重勝が舅の大槻城主 大槻太郎左衛門政通と図って蘆名氏に叛いた際 蘆名方に加担し、また同13(1585)年 関柴備中守が敵対する伊達に内応した際 これを討ち取っています。そして同17(1589)年、蘆名義広が「摺上原の戦」で伊達政宗に敗北を喫すると沼沢実通、忠通父子は義広に従って常陸佐竹家を頼って落ち延びたとされ、この際 丸山城は破却されたものと思われます。その後、沼沢氏は会津にもどり会津藩主 保科氏に出仕したとされます。 |
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「山内七騎党」 横田山内氏の庶流 沼沢山内氏の城館 |
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岬城 |
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平場 |
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場所はココです |
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沼御前神社公園の駐車場借用 |
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平成29(2017)年11月7日 |
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丸山城は沼沢湖の南東端、沼沢湖に張り出した東西に細長い小丘陵に築かれた「居館」と背後の尾根上に築かれた「要害」からなります。(写真左上ー北西側からの遠景 写真右上ー要害部の遠景) でっ、「居館」部は現在、沼御前神社の社地になり、東側の向地区からアプローチすると公園駐車場が設けられています。でっ、「居館」部の規模は東西130m×南北20mほど、内部は東から西方向に3段の段郭群に加工され、西側の下段に沼御前神社が祀られています。(写真左ー西下段・東西70m×南北10−20mほど
写真左下ー沼御前神社 写真右下ー西下段・中段間の段差2mほど) |
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(写真左上) 中段、規模は東西30m×南北10−15mほど。 |
(写真右上) 中段・東上段間の段差、高さ1mほど。 |
(写真右) 東上段、規模は東西30m×南北10mほど。 |
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