善 根 城
新潟県柏崎市善根
立地・構造

善根城 概念図
 善根城は鯖石川流域と小国盆地に挟まれ南北に延びた八石丘陵の西側支尾根の小ピーク(標高441m 比高400m)に築かれた山城で、東側の八石山に繋がる稜線を堀で遮断して城域を区画しています。城の規模は東西300m×南北100mほど、ピーク部に構築された主郭は東西110m×南北40mほど、東・西側縁に虎口を区画したと思われる土塁が築かれています。大手筋に想定される西側稜線は段郭群で処理され、竪堀・横堀で狭められた2本のスロープ状の土橋で主郭に繋がり、段郭群で導線を防御する構造になっています。また西側稜線の小ピーク(標高270m 比高230m)に八石小城と呼ばれる前衛陣地が設けられています。善根城は自然の要害地形を最大限 利用して築かれたシンプルな構造の城砦ですが、主郭部は相当広い まとまった平場になっており、基本的に有事の際「避難城」、物見砦として使用されたと推測されます。

 築城時期・築城主体ともに不明。伝承によると15世紀末期の城主として越後毛利氏の庶子家 毛利大万之助浄広、周広父子(善根毛利氏)の名が伝えられ,、鎌倉期 「鵜川荘」「佐橋荘」に入部した越後毛利氏が庶家を分知した頃、善根毛利氏により築かれたと推測されます。しかし16世紀末頃?、毛利周広は領地争いから同族の北条城主 北条丹後守(高広か?)の攻撃を受け、善根毛利氏は滅ぼされました。善根城の史料上での初見は天文23(1554)年、北条城主 北条高広が甲斐の武田晴信(信玄)に内応して、越後国主 長尾景虎(のちの上杉謙信)に背いた時です。この際、同族の安田城主 安田越中守景元は景虎の側近 直江大和守実綱に事態を報告し北条勢と対峙しました。(北条氏と対立した景元が景虎に諫言したとする説もあるようです) 翌24(1555)年、景虎は上条城枇杷島城に援兵を派遣し、さらに自らも善根城に出陣して北条城攻撃を指揮したとされ、北条高広が降伏することで「乱」は終結しました。
歴史・沿革
善根城 主郭の城址碑
メモ
越後毛利氏の庶子家 善根毛利氏の「要害」
形態
山城
別名
八石城・鯖石城
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・井戸祉・堀
場所
場所はココです
駐車場
登り口に専用駐車場あり(北西麓)
訪城日
平成21(2009)年10月4日
善根城は鯖石川の右岸、善根地区背後の八石丘陵の支尾根ピークに築かれた山城です。(写真左上ー西側からの遠景 写真右上ー北西側からの遠景) でっ、城へは数ヶ所から八石山ハイキングコースが整備され、管理人は北西麓の不動滝近くからアプローチし、とりあえず標高272mの小ピークを目指しました。(写真左ー登り口 写真左下ー登山道) でっ、辿り着いた小ピークは八石小城と呼ばれる前衛陣地だったようで、もともと大手導線を監視した小砦があったのでしょう。(写真右下)
八石小城からさらに比高差130mを登ったあたりから本格的な城域になります。最初に現れるのが竪堀で狭められたスロープ状の土橋で(写真左上)、ここを登り切ると馬隠場の木戸口に辿り着きます。(写真右上) 馬隠場は北ー西縁に土塁を設けた方形郭のようですが、藪が酷く形状は不詳。馬隠場から主郭方向にはさらに数段の段郭群が敷設され、導線を防御する構造になってます。(写真右) でっ、最後は横堀にかけられた土橋で主郭に繋がっています。(写真左下) 横堀の規模は幅7−8mほど、主郭側は高い切岸が確保されています。(写真右下)
土橋を渡った後、導線は主郭の側面から土塁で区画された虎口を通り、主郭に繋がっています。(写真左上) 主郭の規模は東西110m×南北40mほど(写真右上)、東・西縁側に虎口を区画した南北土塁が築かれています。でっ、東側の土塁上に立派な城址碑が建てられ(写真左)、また中央北縁に井戸祉と思われる窪地が見られます。(写真左下) 主郭からは北条城安田城が遥か眼下に眺望でき、「北条攻め」の際 謙信がここを拠点としたことがよく理解できます。(写真右下)
主郭背後の八石山に繋がる稜線尾根は定番の堀切で断ち切られ、ここで善根城は完結します。(写真左上)
おまけ 登山口の近くの不動の滝です。(写真左) 写真に対象物がないため小さく見えますが、高さは50mほどあります。
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