勝 本 城
長崎県壱岐市(旧勝本町)勝本町坂本触
立地・構造
 勝本城は壱岐島の北部、勝本浦を望む通称 城山(標高82m 比高80m)に築かれた山城です。規模は東西200m×南北180mほど、城縄張りは頂部を加工した主郭主郭の四周に敷設された帯郭からなるシンプルな輪郭構造の城郭です。主郭の規模は東西100m×南北40−50mほど、北側中央に桝形虎口が設けられ下部の帯郭に繋がっています。帯郭の規模は幅10−30mほど。大手筋は北麓からのルートが想定されています。なお大手桝形と北側
勝本城 概念図
城壁部分は石積で構築され、また南側城塁には崩落石塁が見られることから、勝本城は総石垣で構築されていたものと思われます。現在、城址は城山公園として整備され、北側の大手桝形は良好な状態で残存しています。

 天正18(1590)年、小田原の陣」「奥州仕置」を終え天下統一を果たした豊臣秀吉は明国制服を目論み、まずは明の冊封国である「李氏朝鮮」に服属を求めて宗義智を朝鮮に派遣します。しかし翌19(1591)年、「李氏朝鮮」がこれを拒否したため秀吉は「唐入り」を決意し、同年 肥前国に本陣として名護屋城の築城に取り掛かりました。さらに朝鮮への経由地となる対馬に清水山城を築き、この際 勝本城は肥前と対馬を繋ぐ兵站基地として松浦鎮信により築かれたとされます。勝本城完成後、勝本城には大和大納言家の被官 本多因幡守俊政が配され、日本軍のための兵站物資の海上輸送と島内の治安維持に当たったとされます。慶長3(1598)年、秀吉の死により「文禄慶長の役」は終結し、日本兵の朝鮮撤退後 勝本城は破却されたものと思われます。平成14(2002)年、国の史跡に指定。
歴史・沿革
勝本城 大手桝形
メモ
「文禄慶長の役」時、日本軍の兵站基地
形態
山城(丘城)
別名
風本(かざもと)城・武末城・雨瀬包(あませかね)
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・桝形・石垣
場所
場所はココです
駐車場
城山公園駐車場あり
訪城日
令和元(2019)年10月25日
勝本城 遠景 勝本城 近景
勝本城は勝本浦を見下ろす通称 城山に築かれた山城です。(写真左上ー北東側からの遠景 写真右上ー北東麓からの近景) でっ、現在城址は城山公園として整備され、南東側のR382から車道が敷設されています。(写真左ー車道) でっ、車道を登ると帯郭の南西部にたどり着きますが、ここに駐車場が設けられています。(写真左下) 主郭を囲った帯郭の規模は幅10−30mほど、規模は一定ではないようです。(写真右下ー西帯郭)
(写真左上) 東帯郭
(写真右) 「諏訪大社の御柱」、壱岐市と長野県諏訪市は河合曾良の生誕・終焉の地の縁により姉妹都市になっていて、「御柱」はこの縁により諏訪市から寄贈されたもの。
主郭の北側側面には野面積の石垣が残存し、また南側側面には崩落石塁が見られます。(写真左下ー北石垣 写真右下ー崩落石塁)
勝本城 石垣 勝本城 崩落石塁
勝本城 大手桝形 勝本城 大手桝形
勝本城 大手桝形
勝本城の城郭パーツのなかで最も良好な状態で残存しているのが主郭の北側中央に設けられた大手桝形になります。(写真左上、右上、左) 導線は北帯郭からスロープ状に登り、桝形を通って主郭に繋がる構造になっています。桝形部分は石垣で構築され、一の門基壇の隅部は崩壊していますが、たぶん 算木積だったと思われます。(写真左下、右下)
勝本城 大手門の石垣 勝本城 大手門の石垣
主郭(写真左上)
規模は東西100m×南北40−50mほど、土塁等の城郭パーツは見られず、北側縁に城山稲荷が祀られるのみ。(写真右上) 主郭からは勝本浦を一望にできます。(写真右)
 
勝本城 勝本浦を望む
ー 動画 勝本城を歩く ー