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平泉寺は白山(標高2702m)への登拝道(「白山禅定道」)の勝山口に位置する山岳寺院(城郭寺院)で、北・南側に沢が入り込み西方向に延びた小丘陵上(比高10−15m)に位置します。規模は東西1.2km×南北1.0kmほど、丘陵上の寺院、境内を囲むように、北側に北谷が、南側に南谷と呼ばれる僧坊、塔頭群が構えられ、また北・東側の丘陵上に平泉寺を囲むように城砦群が構築されていました。 |

白山平泉寺推定復元図 (左が北方向) |
白山平泉寺は養老元(717)年、白山で修行した僧 泰澄により開基された修験道場で、応徳元(1084)年 比叡山延暦寺の末寺になることで寺勢を拡大していきました。この拡大過程で自衛のための武装化が進み、源平争乱期
平家軍に加担しましたが「倶利伽羅峠の戦」で木曽義仲軍に敗れています。しかし後に戦勝祈願所として吉田郡「藤島郷」を与えられています。また鎌倉末期、大野郡「牛ヶ原荘」の地頭職 淡河時治(北条氏庶流)と対立して時治を自害に追い込んでいます。南北朝期、平泉寺は当初 南朝勢力に加担して新田義貞等とともに斯波高経等の北朝勢力と対峙しましたが、延元3(1338)年 北朝方に寝返り 藤島城で新田義貞を討死に追い込んでいます。「応仁の乱」後の文明3(1471)年、越前国守護職 斯波氏の被官 朝倉孝景は幕府から越前国守護職に補任され、同13(1481)年 対立する守護職 斯波氏、守護代の甲斐氏を駆逐して越前の統一に成功し、平泉寺を朝倉家の祈願所として支配下に置きました。そしてこの頃、平泉寺は僧坊六千と称される大勢力に成長していました。長享2(1488)年、加賀を支配した一向一揆勢力は越前に何度も侵入を繰り返しましたが、その都度
朝倉氏に追い返されました。しかし反織田の立場から永禄12(1569)年、朝倉・本願寺間で同盟が結ばれると、平泉寺は反本願寺の立場から朝倉氏に対して距離を置くようになります。天正元(1573)年、織田軍が越前に侵攻すると朝倉義景は平泉寺に救援を求めましたが拒否されたため、一族の「大野郡司」 朝倉式部大輔景鏡(戌山城主)の勧めで越前大野に遁走し、景鏡の裏切りにより自害に追い込まれました。翌2(1574)年、越前の一向一揆勢力は一斉蜂起し、敵対する平泉寺を攻撃して全山を焼き払いました。その後、平泉寺は豊臣秀吉の手により復興され、江戸期 福井藩、勝山藩から寄進を受けて「明治維新」まで存続しましたが、明治初年の「神仏分離令」により廃絶されました。 |