川 俣 城
福島県伊達郡川俣町舘ノ越、東福沢字舘池ノ入
立地・構造
 川俣城は川俣盆地の南縁、通称 舘ノ山(標高323m 比高120m)に築かれた山城で、南側稜線を三重堀で断ち切って城域を独立させています。城の規模は推定 東西1000m×南北900mほど、城縄張りは山頂部を加工した主郭を中心に四方に延びた稜線に展開され、舘ノ山全体を城塞化した巨大な城郭に加工されています。城中枢はピークに構築された主郭主郭から北東方向に延びた稜線を加工した二の郭、北側稜線を加工した三の郭、南側稜線を加工した南郭からなり、主郭・南郭間は堀切で断ち切られています。規模は主郭が東西40m×南北60m、二の郭が東西50m×南北15m、南郭が東西10−15m×南北100mほど。大手筋は北西麓からのルートが想定され、この方向に「根小屋」が構えられていたと思われます。同地は相馬・三春ー岩代ー信夫への基幹街道が交錯する要衝に位置します。

 川俣城は天正12(1584)年、伊達政宗の被官 桜田右兵衛尉資親により築かれたとされます。当時、この地は相馬領、岩代大内領に接した伊達領の南端に位置しており、軍事・軍略的な必要性から取り立てられたものと思われます。同13(1585)年、仙道制圧を目指す伊達政宗は川俣に陣を敷き、小浜城主 大内備前守定綱を駆逐、翌14(1586)年 二本松城を陥落させて二本松畠山氏を滅ぼしています。慶長3(1598)年、上杉景勝の会津転封により川俣城は上杉氏の属城となりましたが、同5(1600)年 「関ヶ原」が勃発すると駒ヶ嶺城主 桜田玄番基親(資親の嫡子)は上杉領に侵入して安田氏の守備する川俣城を攻略、伊達政宗の白石城奪取に貢献しています。
歴史・沿革
川俣城 主郭南側の堀切
メモ
伊達氏の被官 桜田氏の「要害」
形態
山城
別名
御影館・臥牛館・旭館・河股城
遺構
郭(平場)・櫓台・虎口・堀
場所
場所はココです
駐車場
川俣体育館の駐車場借用
訪城日
平成21(2009)年11月21日
川俣城は川俣市街地を見下ろす通称 舘ノ山に築かれた山城です。(写真左上ー北東側からの遠景) でっ、舘ノ山へはいくつか登山ルートが設けられているようですが、管理人は西麓の川俣体育館からアプローチしました。(写真右上ー川俣体育館 写真左ー登り口・誘導杭あり) 登山道はつずらおれに敷設され、じきに南側の稜線尾根に辿り着きます。(写真左下) でっ、稜線を北方向に進むと最初の堀切が見えてきます。(写真右下) 堀の規模は幅5−6m×深さ3−4mほど。
最初の堀切を越えて、さらに進むと稜線は2条の堀で遮断され(写真左上・右上)、稜線はつごう三重堀で断ち切られています。特に北側の堀切は規模が大きく、5−6m切り落とした巨大なもの。
南郭(写真右・左下) 稜線をシンプルに加工した廊下状の郭。規模は東西10−15m×南北100mほど、内部は低い段で三つの平場に仕切られています。でっ、またまた現れるのが主郭・南郭間の堀切。(写真右下) 規模は幅10m×深さ5−6mほど、巨大な堀切です。
堀底から導線は主郭の東側側面を通り(写真左上)、二の郭方向に繋がっています。(写真右上)
二の郭(写真左) 主郭から北東方向に張り出した稜線を加工した郭で、規模は東西50m×南北15mほど。南西端に虎口と虎口を固めたと思われる櫓台が確認できます。(写真左下) でっ、中央北側に「桜田氏居城の地」碑が建てられ(写真右下)、ここからは川俣市街地が一望にできます。なお稜線の北側先端部分は段郭群で処理されているようですが藪がひどく未確認。
(写真左上) 二の郭から川俣市街地を眺望
主郭(写真右上) 舘ノ山山頂に構築された平場、規模は東西40m×南北60mほど、北東側に坂虎口が設けられています。(写真右) ま 〜〜〜、内部は整備されてはいませんが削平もよく、居館・殿舎を構えるには充分なスペースがあります。なお川俣城の北東2.4kmには桜田氏が川俣城以前に拠点とした城ノ倉城(河股古城)があります。
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