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賤 ヶ 嶽 砦 |
滋賀県長浜市(旧木之本町)木之本町大音 |
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賤ヶ嶽砦は琵琶湖の北東岸、湖北と余呉湖の境をなす賤ヶ嶽(標高421m 比高300m)に築かれた山城で、ピークに築かれた主郭と東・西側に配置された郭群からなります。主郭の規模は東西60m×20mほど、西縁に土塁が築かれ、西郭と区画されています。西郭は主郭との接続部以外は土塁で囲郭され、主郭と2mほどの段で仕切られています。主郭の東側はゆるやかな緩斜面になり、下部の北東ー東ー南東縁に土塁が築かれ端部は大岩山に繋がる虎口になっています。主郭と東郭間は堀で仕切られていたと推測され、北側中央に堀祉が残存しています。 また主郭部の北・南 |

現地説明板の図 |
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側下に犬走りが設けられ、各郭を繋ぐ通路として利用されていたと思われます。内部は観光整備のため相当 改変されていますが、堀・土塁が部分的に残存しています。「賤ヶ嶽の戦」の際 取り立てられた羽柴方の陣城として小規模な小砦ですが、余呉湖を挟んだ北方に位置する柴田方の陣城や羽柴方の前線基地 東野山砦、堂木山砦等が一望にできる高所に位置します。
天正10(1582)年、織田家の後継者を決定する「清洲会議」で柴田勝家が推す信長の三男 神戸信孝を退け、信忠の嫡子 三法師(後の織田信秀)を後継者に擁立した羽柴秀吉はこのため勝家と対立します。同年12月、秀吉は雪で行動を制限された柴田方の長浜城を攻撃、さらに岐阜城の神戸信孝を降伏させました。そして翌11(1583)年1月、秀吉が柴田方として挙兵した伊勢の滝川一益を攻撃してこれを降伏させると、3月 勝家は残雪をかきわけて近江柳ヶ瀬に出陣し玄蕃尾城を本陣としました。このため秀吉は同月、木之本に進出して北国往還を見下ろす田上山に本陣を置き、さらに北国往還沿いの丘陵上に陣城を築いて柴田勢と対峙しました。そして この際、賤ヶ嶽には秀吉の家臣 桑山重晴が陣を敷きました。4月、一旦 秀吉に降伏していた神戸信孝が滝川一益と結び大垣城に進出すると、秀吉は田上山砦に弟 秀長を残して美濃に出陣して信孝勢を制圧しました。しかしこの間、湖北の羽柴勢が手薄になった隙をつき、柴田勢の佐久間玄蕃允盛政は大岩山砦を急襲して砦を攻略しました。大岩山砦を守備していた中川清秀は桑山重晴と岩崎山砦を守備した高山右近に応援を求めましたが、佐久間勢の攻勢に耐え切れず中川清秀は討死にし、重晴と右近は退却を余儀なくされました。そして勝家は盛政に退却を指示しましたが盛政は陣を引かずそのまま居座り、大垣城で大岩山砦、岩崎山砦の陥落を知った秀吉勢が一日で木之本に引き返したため、盛政は驚き退却を開始しました。しかし佐久間勢は羽柴勢に退路を絶たれて壊滅し、さらに柴田勢の前田、不破、金森隊が戦線離脱することとなります。そして羽柴勢が柴田勝家の本隊に殺到したため、勝家も越前北の庄城への退却を余儀なくされました。この際、桑山重晴は羽柴本隊が木之本に到着すると、丹羽長秀とともに賤ヶ嶽へ再び登り、拠点にしたと伝えられます。 |
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「賤ヶ嶽の戦」時 羽柴方の桑山重晴の陣所 |
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山城(陣城) |
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郭(平場)・土塁・虎口・堀 |
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場所はココです |
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賤ヶ嶽リフト駐車場 |
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平成18(2006)年7月7日 |
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賤ヶ嶽砦は琵琶湖北東岸の賤ヶ嶽に築かれた山城です。(写真左上) でっ、城へは南東麓から南側稜線までリフトが敷設され、リフト乗降口からしばらく尾根道を登ると、北ー西ー南縁に低めの土塁が巻かれた西郭に辿り着きます。(写真右上) |
主郭(写真下) 規模は東西60m×南北25mほど。観光整備のため相当 改変を受けているようで、中央北側に見られる竪堀祉が唯一の遺構のようです。(写真左)
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(写真左上) 主郭の石碑・城址標柱 |
(写真右上) 東郭、主郭から北東側に延びた緩斜面の郭。北・南縁に土塁が残存し、先端部分は大岩山砦方向に繋がる虎口になっています。 |
(写真右) 主郭から余呉湖(北)方向を見たところ。「賤ヶ嶽の戦」時、柴田軍(玄蕃尾城、行市山)と羽柴軍(堂木山,、東野山)が対峙した陣所が一望にできます。 |
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