塩 越 城
秋田県にかほ市(旧象潟町)象潟塩越
立地・構造
 塩越城は日本海に面した象潟地区の北西部、象潟川南岸の微高地に築かれた平城です。城の規模は推定 東西200m×南北300mほど(か?)、土塁と堀(濠)で囲郭された輪郭構造の城館と推測されます。現在、城址は宅地化等により消滅していますが、本丸部分の土塁が部分的に残存しています。

 築城時期・築城主体ともに不明。一説には貞治4(正平20 1365)
年頃、池田豊後守茂政により築かれたとも。池田氏の出自は不明ですが、室町期 庄内から由利郡に入部して「由利十二頭」 仁賀保氏に出仕し、以後 仁賀保氏の与力をつとめていたと思われます。慶長5(1600)年の「関ヶ原」後、由利郡が最上氏に宛がわれると、池田氏は由利郡に入部した楯岡豊前守満茂に出仕し、塩越周辺の統治を任されました。しかし元和9(1623)年、最上氏の改易(「最上騒動」)により池田氏も禄を離れ、代わって塩越には仁賀保兵庫頭挙誠(きよしげ)が常陸国武田から入封し仁賀保藩を立藩しました。そして寛永2(1625)年、挙誠が死去すると挙誠のあとを継いだ嫡子の蔵人良俊が七千石を知行し、次男の内膳誠政が二千石、三男の内記誠次が千石を分知されました。しかし寛永8(1631)年、良俊が嗣子ないまま死去したため仁賀保嫡流は改易となり、塩越城は廃城となります。その後、城址には本荘六郷藩の代官所が構えられ、「明治維新」まで存続しました。
歴史・沿革
塩越城 本丸 北東部の土塁
メモ
 中世 ー 仁賀保氏の与力 池田氏の居館
近世 ー 仁賀保藩の藩庁、本荘六郷藩の代官所
形態
平城
別名
 ・・・・・・・・・・
遺構
郭(平場)・土塁祉
場所
場所はココです
駐車場
公民館の駐車場借用
訪城日
平成18(2006)年12月13日 平成25(2013)年4月29日
塩越城は日本海に面した平野部の微高地に築かれた平城ですが、宅地化等により規模・構造等は不明瞭になっています。(写真左上ー北西側からの遠景) でっ、本丸と思われる部分は耕作地になっていて(写真右上)、北から北東側に高さ2−3mの土塁が残存しています。(写真左) でっ、土塁の下部に石積が認められますが、後世のものなのでしょう。なお城址の東側に象潟川が流れており、ここが塩越城の東限なのでしょう。(写真左下) また北西500mには物見山と呼ばれる丘があり、中世塩越城に関連したものと思われます。(写真右下)
ー 松尾芭蕉 「おくの細道」 史跡 ー
 元禄2(1689)年6月16日(8月1日)昼ごろ、「おくの細道」紀行中の松尾芭蕉主従は無耶ノ関を越えて象潟に到着しました。そして芭蕉と随行の河合曽良は能登屋孫左衛門宅を宿とし、夕方 欄干橋から九十九島を眺望しています。翌17日、芭蕉と曽良は朝食後 蚶満寺に出かけ、帰りに熊野権現に参拝、神楽奉納を見学しました。(当日、熊野神社の祭礼日) そして昼からは舟で九十九島めぐりを楽しみました。18日は早朝、欄干橋から鳥海山を眺め、朝食後 象潟を発ち酒田に向いました。
  • 「ゆふ晴や 桜に涼む 波の華」
  • 「腰長や 鶴脛ぬれて 海涼し」
  • 「きさかたや 雨に西施が ねぶの花」
(写真左上) 今野又左衛門の家祉
『曽良随行日記』
十七日 朝、小雨。昼ヨリ止テ日照。朝飯後、皇宮山蚶弥(満)寺ヘ行。道々眺望ス。帰テ所ノ祭渡ル。過テ、熊野権現ノ社ヘ行、躍等ヲ見ル。夕飯過テ、潟ヘ船ニテ出ル。加兵衛、茶・酒・菓子等持参ス。帰テ夜ニ入、今野又左衛門入来。象潟縁起等ノ絶タルヲ嘆ク。翁諾ス。弥三良低耳、十六日ニ跡ヨリ追来テ、所々ヘ随身ス。
(写真右上) 熊野神社 (写真左) 蚶満寺本堂 (写真左下) 蚶満寺境内の松尾芭蕉像 (写真右下) 蚶満寺境内の船繋ぎ石
秋田の中世を歩く