中原兼遠館
長野県木曽郡木曽町(旧木曽福島町)新開上田
立地・構造
 中原兼遠館は木曽川の左岸、東から西方向に張り出した河岸段丘先端に築かれた崖縁城で、北側に正平川が、南側に天神沢が切り込んだ要害地形に選地されています。規模は推定 東西200m×南北220mほどか?。館はこの段丘上の一角に構えられ、他は牧場等に利用されていたと思われます。大手は木曽街道に通じる東側に設けられていたと思われます。
 築城時期は不明。築城主体・館主は木曽谷の豪族 中原兼遠と伝えられます。中原氏は代々 朝廷で外記をつとめた家柄で兼遠の父 兼経は正六位下、右馬少允に叙任された後、信濃国佐久郡に移住して牧長をつとめたとされます。兼遠は兼経の三男として生まれ、木曽谷を拠点としていたことから「木曽三中」を称し、この頃 館は構えられたと思われます。久寿2(1155)年、兼遠は「大蔵合戦」で討死した源帯刀先生義賢の遺児 駒王丸を庇護してこの館で養育します。その後、駒王丸は元服して木曽次郎義仲を称し、宮の越に館を構えました。治承4(1180)年、義仲が平家打倒の兵を挙げると兼遠は出家して林昌寺を創建し、翌5(1181)年 死去したと伝えられます。館自体は木曽義仲や自身の子 樋口兼光、今井兼平、落合兼行が討ち取られた寿永3(1184)年頃、破却されたものと思われます。
歴史・沿革
中原兼遠館 南西側からの遠景
メモ
木曽谷の豪族 中原兼遠の館
形態
平城(崖縁城)
別名
中原兼遠屋敷
遺構
・・・・・・・・・
場所
場所はココです
駐車場
町組公民館の駐車場借用
訪城日
平成28(2016)年11月10日
中原兼遠館は木曽川の東岸、舌状に張り出した段丘先端に築かれた崖縁城です。(写真左上ー西側からの遠景) でっ、館へは東側の栗本地区に案内杭があって、ここからアプローチします。(写真右上) しばらく進むと中央本線が段丘を南北に横切っていますが、・・・・・ たぶん堀の利用したものか?。(写真左) 館内部は現在、耕作地に改変されているため遺構等は一切ありません。(写真左下) でっ、内部に兼遠に関連した碑があるようですが ・・・・・、きずいたのは帰宅後でした。
手習天神(写真右上) 兼遠が義仲の学問向上のために勧請したと伝わっています。現在の社殿は江戸末期の再建。館祉の南方300mにあります。