駿 河 丸 城
広島県山県郡北広島町大朝・間所
立地・構造
 駿河丸城は大朝盆地の北縁、寒曳山(標高825m)から南方向になだらかに延びた丘陵先端(比高30m)に築かれた平山城で、丘陵基部を堀で分断して城域を独立させています。城の東・西側には沢が切り込み急峻になっていますが、南側は比較的緩斜面になっていて、この部分は段郭群で
駿河丸城 概念図
処理されています。城縄張りは相当シンプルなもので、中央の谷地状の平場を囲むように、東側と北から西側にかけて郭が構築されています。東側の郭(東郭)は長辺30mの三角形の形状をした郭で、主郭に想定されています。周囲は10m切り落とした切岸で処理され、南ー東側に腰郭が敷設されています。西郭は中央の平場を北から西側をカバーした土塁状の郭で、最大幅は10−15mほど。中央の平場は50m四方ほどの規模で、北から南方向に若干 傾斜しながら南側の段郭群に繋がっています。基本的には中央の平場が恒常的居館に想定され、この居館を防御するため東郭・西郭が構えられたと推測されます。大手筋は南側の段郭群が想定され、搦手は中央の平場から東郭・西郭間の堀(木戸口を兼ねる)から背後の堀切に繋がるルートと推測されます。

 築城時期・築城主体ともに不明。一説には平安期、平家の一族が拠した居館とも。通説では「承久の乱」(承久3 1221年)で軍功をあげた駿河国の鎌倉御家人 吉川経光が安芸国「大朝荘」の地頭職を得て、嫡子の伊豆守経高が正和2(1313)年 安芸国に下向して駿河丸城を築いたと伝えられます。経高の嫡子 経盛は南北朝期、後醍醐天皇に叛旗を翻した足利尊氏に与して石見の南朝勢力と対峙しましたが、吉川庶子家(石見吉川氏)の経兼・経見父子が南朝方に寝返ったため、吉川氏は勢力を衰退させました。その後、経盛の跡は嫡子の駿河守経秋が継ぎましたが経秋に嗣子がなかったため、応安4(建徳2 1371)年頃 石見吉川家出身の右兵衛尉経見が経秋の婿養子として吉川惣領家の家督を継承しました。この経見の代に小倉山城を新たな拠点として築き 移り住んだため、駿河丸城は廃城になったとされます。
歴史・沿革
駿河丸城 西郭北側の堀
メモ
安芸の有力国衆 吉川氏、「大朝荘」への入部当初の館城
形態
平山城
別名
 平家丸城・間所城
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・堀
場所
場所はココです
駐車場
登口に路駐
訪城日
平成21(2009)年3月23日
駿河丸城は寒曳山から南方向に延びた丘陵先端に築かれた平山城で(写真左上)、現在 城址は「吉川氏城館遺跡」として国史に指定されているため、主要道路には案内杭が設置され、登口まで誘導してくれます。(写真右上・左) でっ、城内は一面の竹林になっていますが、導入部には段郭群が確認でき(写真左下)、中央の平場に辿り着きます。(写真右下) 中央の平場は東郭西郭に挟まれた50m四方ほどの平場になっていて、内部は北から南方向に若干 傾斜しながら南側の段郭群に繋がっています。
東郭(写真左上)
長辺30mの三角形の形状をした郭で、主郭に想定されています。周囲は10m前後の切り落とした切岸で処理され(写真右上)、南ー東側に腰郭が敷設されています。(写真右)
西郭(写真左下)
中央の平場の北から西側をカバーした郭。規模は東西10−15m×南北70mほど、内部は南北2段に削平され、周囲は10mの切岸で画されています。(写真右下)
東郭・西郭間の堀(写真左上)は搦手の木戸を兼ねていたと推測され、堀底はそのまま城の北側稜線を断ち切った堀に繋がっています。(写真右上) 堀の規模は幅10−15mほど。
(写真左) 駿河丸城の登り口から見た大朝盆地です。駿河を本貫としていた吉川嫡流家がなぜ、駿河・播磨の肥沃な所領を捨てて、標高400mの比較的 寒冷な安芸北部に下向したのかは未だもって不明。大朝に入部した吉川氏は駿河丸城小倉山城を経て、元春の代に火野山城を築き最盛期を迎えました。
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