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江釣子館は和賀川下流域の左岸、河岸段丘先端(比高5−10m)に築かれた平城で、段丘崖と堀で区画された単郭の方形館と想定されます。館の規模は東西100m×南北50mほど。館の南側は段丘崖で画し、東ー北ー西側は自然地形の沢を利用した堀と人為的な堀で仕切られていたと思われます。現在、本郭内に江釣子神社が創建され児童公園に改変されていますが、南側の段丘崖、東側の堀祉が確認できます。堀の規模は幅10ー |
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15m×深さ2−3mほど。一般的な在地領主の日常居館として築かれたものと思われます。
築城時期・築城主体ともに不明。館主は飛勢城主 和賀氏の被官 江釣子氏と伝えられます。江釣子氏の出自・事績等は不明。戦国末期の館主は江釣子民部と伝えられます。天正18(1590)年の「小田原の役」に主家 和賀義忠が参陣しなかったため、戦後 和賀氏は領地没収・改易となります。そして慶長5(1600)年に勃発した「岩崎一揆」の際、江釣子民部は一揆の発起人の一人として一揆を主導したと伝えられます。 |
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和賀氏の被官 江釣子氏の居館 |
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平城 |
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・・・・・・・・・ |
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郭(平場)・堀祉・土塁祉 |
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場所はココです |
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路上駐車 |
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平成20(2008)年10月22日 |
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江釣子館は和賀川左岸の河岸段丘先端に築かれた平城です。(写真左上) 館は南側を段丘崖で(写真右上)、東ー北ー西側は人為的な堀で区画されていたと想定されますが、現在 残存しているのは東側の堀祉のみ。(写真左) 北側の堀は埋められ消滅し、かすかな段差で塁線が確認できます。でっ、館を囲郭していたと思われる土塁は南側にその痕跡が残っています。(写真右下) 館内部の規模は東西100m×南北50mほど、西側に江釣子神社が鎮座しています。(写真左下) |
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