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上 煤 孫 館 |
岩手県北上市(旧和賀町)和賀町煤孫本郷 |
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上煤孫館は和賀川の南岸、熊沢川を挟んで南から北方向に張り出した東・西側の丘陵先端(比高30m)に築かれた平山城です。(東館・西館) どちらも丘陵基部を堀と土塁で分断して城域を区画した複郭構造の城館。このうち西館は東西100m×南北180mほど、内部は堀で仕切られた南・北の2郭からなります。規模は北郭が東西70m×南北100m、南郭が東西90m×南北60mほど、南郭が主郭に想定されます。両郭は幅5−6m×深さ2−3mほどの堀で遮断され土橋で繋がっています。大手は北東麓からのルートが想定されます。東館は踏査していないため不明。
築城時期・築城主体ともに不明。『鬼柳文書』に仁治4(1243)年、和賀郡の地頭職 和賀義行が三男の景行に「須々孫野馬」を譲渡したことが記されており、上煤孫館は景行がこの地に入部して築いた城館とも推測されています。建長8(1256)年、景行は鎌倉幕府から奥州街道筋の警固役を命ぜられ、また弘安8(1285)年頃 煤孫氏は惣領の和賀氏と対立して和賀氏の支配下から離脱し和賀川流域に勢力を拡大しました。南北朝期、煤孫氏は南朝方に加担して北朝勢力と対峙し、室町期
惣領和賀氏と本格的に対峙しました。永享7(1435)年、煤孫氏と惣領和賀氏との確執が表面化すると、煤孫氏は稗貫氏に支援を依頼し和賀義篤を攻撃します。しかし義篤が三戸南部義政に支援を要請するなど「和賀氏の内訌」は拡大の一途を辿りました。そして「和賀氏の内訌」は葛西、大崎氏が和賀領に侵攻して飛勢城を攻撃するなど泥沼化しましたが、稗貫氏と南部氏が和睦することで「内訌」は終結しました。その後の煤孫氏の消息は不明ですが、慶長5(1600)年の「岩崎一揆」に一揆勢に加担した煤孫館主 煤孫下野守の名が見られます。 |
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和賀氏の庶流 煤孫氏 初期の館城か? |
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平山城 |
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・・・・・・・・・ |
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郭(平場)・土塁・堀・土橋 |
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場所はココです |
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林道脇に路上駐車 |
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平成18(2006)年9月30日 |
平成20(2008)年10月22日 |
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上煤孫館は和賀川の右岸、熊沢川を挟んだ東・西側の丘陵先端に築かれた平山城です。(写真左上・右上) 城へは北麓から農道が敷設され、城の東側斜面を貫通しています。(写真左)
でっ、史跡の表示杭、標柱等は見られませんが、農道わきに土塁の痕跡が見られます。 |
北郭(写真左下) 規模は東西70m×南北100mほど、内部は鬱蒼とした森林になっていますが、南縁に高さ1−1.5mの分厚い土塁が見られます。(写真右下) |
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北郭・南郭間は幅は5−6m×深さ2−3mの堀で分断され(写真左上)、土橋で繋がっています。(写真右上) |
南郭(写真右) 実質的な主郭と思われます。規模は東西90m×南北60mほど、南縁に高さ2−3mの土塁が築かれ(写真左下)、外側は幅5−6m×深さ2−3mの堀で断ち切られています。(写真右下)
ちなみに土塁の画像は農道で破壊された断面部分です。 |
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