岩 尾 館
福島県喜多方市熱塩加納町宮川字八反田
立地・構造
 岩尾館は会津盆地の北西部、濁川右岸の河岸段丘上(比高10m)に築かれた本郭・外郭からなる崖縁城(平城)です。全体の規模は不明、本郭の規模は70−80m四方ほど、東ー北側を段丘崖で、南側を沢で、西側は人為的な堀で区画されていたと思われます。外郭本郭から西側100mに構築された南北土塁によって区画されていたと推測されますが規模、構造ともに不明。基本的に在地領主の恒常的居館を後に拡張したものと推測されます。

 築城時期・築城主体ともに不明。一説に
鎌倉御家人 佐原十朗左衛門尉義連が文治5(1189)年の「奥州藤原討伐」の軍功により会津四郡の地頭職に補任された際 築いたとも。また宝治元(1247)年に勃発した「宝治合戦」以後、「加納荘」の地頭職を分与された義連の嫡子 遠江守盛連の五男 五朗左衛門尉盛時が築いたとも。(盛時が築いたのは青山城で、岩尾館には加納佐原氏の一族、家臣が居住した説もありハッキリしません) そして盛時は「宝治合戦」で衰退した三浦惣領家を継いで「三浦介」を称したとされます。南北朝以降、蘆名氏の惣領支配に陰りが見え始め、庶子家は独立した国人領主化し、惣領蘆名氏と対立するようになります。この過程で加納佐原氏は応永9(1402)年、同族の新宮氏の攻撃を受けて滅亡し、加納佐原氏滅亡とともに岩尾館も廃城になったものと思われます。なお『会津古塁記』山岩尾村舘 東西五十五間 南北六十九間 文治五年乙酉 佐原十郎義連築く。建久二年辛亥小田山に退去す」と記されています。
歴史・沿革
岩尾館 主郭西側の堀祉
メモ
会津蘆名氏の庶流 加納佐原氏の居館か?
形態
崖縁城(平城)
別名
山岩尾村舘
遺構
郭(平場)・土塁痕・堀祉
場所
場所はココです
駐車場
岩尾多目的集会センターの駐車場借用
訪城日
平成22(2010)年5月1日
岩尾館は濁川右岸の河岸段丘先端に築かれた崖縁城です。(写真左上) 本郭と思われる部分は段丘崖の突端に築かれ、東ー北側は段丘崖で(写真右上)、南側は深く切り込んだ沢で(写真左)、西側は堀で丘陵部と分断して城域を区画していました。(写真左下) でっ、ある程度 城郭遺構が確認できるのは、この本郭周辺のみ。本郭は現在、個人の宅地(S原さん宅)になっていて、規模は70−80m四方ほど、内部に「太子堂」と呼ばれる御堂があるようで、堂の脇に歴代当主の墓石と思われる五輪塔もあるようです。(写真右下)
本郭から西方100mに南北に延びた土塁が築かれ、土塁の内側(東側)に外郭が構えていたようです。現在、周辺は開墾地になっていますが、土塁の痕跡がかすかに確認できます。(写真左上) さらに土塁の西側に「玉屋」「御霊屋」か?)と呼ばれる地名が残っており、領主の墓所があったと思われます。(写真右上)
岩尾館から南方1.2kmの半在家地区には会津蘆名氏の祖 佐原十郎義連の墓石と伝わる五輪塔があります。(写真右) でっ、会津に入部した義蓮は半在家に居館を築いたと伝えられています。
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