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伝 佐 原 義 連 の 墓 所 |
福島県喜多方市熱塩加納町宮川字墓の西 |
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佐原義連は平安末ー鎌倉初期の武将です。義連は桓武天皇を祖とする(「坂東八平氏」)相模武士団 三浦党の棟梁 三浦義明の七男として生まれ、三浦氏の拠点 衣笠城に近い佐原に拠していたため佐原氏を称したとされます。通称は佐原十郎。治承4(1180)年、源頼朝が平家打倒の兵を挙げると義連は三浦一族とともにこれに参加し、また平家滅亡後の文治5(1189)年の「奥州藤原討伐」にも参陣しました。この功により義連は戦後の建久2(1191)年、会津北部の地頭職に任ぜられ、半在家に館(岩尾館か?)を築いて移り住んだと伝えられます。(会津に入部したのは義連の嫡子 盛連の代とも) その後、義連の直系は蘆名氏を称して会津黒川を拠点に会津盆地北部を統治し、庶子家を各所に配して惣領支配し 戦国期に「会津守護」を称する有力な戦国大名に成長しました。義連の没年は不詳、『異本塔寺長帳』には建久三年四月十五日、『蘆名系図』に建仁三年五月十七日、『蘆名家由緒考證』に承久三年四月十五日と記されます。義連の墓所は会津喜多方のほかに三浦の満願寺境内にもあります。なお義連の五輪塔の脇に元禄8(1695)年、父 保科正之の志を継いで松平正容が建立した「佐原義連之碑」が建てられています。(場所はココです)
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