檜 原 城
福島県耶麻郡北塩原村桧原字西吾妻国有林
立地・構造
 檜原城は檜原湖の北岸、通称 小谷山(標高954m 比高120m)に築かれた山城で、頂部を削平した3郭(北から二の郭ー主郭ー三の郭)からなるシンプルな連郭構造の城郭です。城の周囲は高さ10mの切岸で削崖され、下部に横堀が普請され本城域を取り囲んでいます。本城域内部は主郭・二の郭間が堀切で分断され、主郭・三の郭間は比高15−20mの斜面を「連続桝形」の虎口導線で繋がっています。規模は主郭が東西30m×南北60mほど、西ー南側に不規則に腰郭が2−3段 敷設され、西側斜面に搦手口と想定される桝形虎口が構えられています。二の郭主郭の北側に位置し規模は東西15m×南北40mほど。南縁に土塁が築かれ、南東端に主郭に繋がる桝形虎口が構えられています。三の郭は東西20m×南北60mほど、内部は北から南方向に低い段差で平場が構築され、基本的
檜原城 概念図
に大手筋を守備する前衛陣地として機能したと思われます。大手筋は南麓からのルートが想定され、三の郭手前の三重堀切を通り 三の郭西側側面を経て大手虎口に繋がっています。檜原城の特徴は「陣城」としては特殊な南麓に大規模に構築された「外構」外郭)でしょう。「外構」は高さ2−3mの土塁と幅2−3mの濠で囲郭され、内部に平常時の居館や家臣の屋敷地、町屋が構えられ、小さいながらも檜原城下を形成していました。

 文明18(1486)年、檜原での山賊退治で功のあった穴沢越中守俊家は会津黒川城「会津太守」蘆名修理大夫盛高から檜原を領地として宛がわれ、以後 穴沢一族は檜原金山の管理と米沢街道檜原口を守備していました。そして穴沢氏は統治拠点として戸山城を築いて檜原を支配していましたが、永禄8(1565)年 米沢城主 伊達輝宗配下の遠藤左馬助率いる伊達勢の攻撃を受け、これを撃退したものの戸山城の限界を知り、新たに岩山城を築いて拠点を移しました。同9(1566)年、伊達勢はふたたび 檜原口に侵入して岩山城を攻撃しましたが、この時も穴沢俊恒、俊光父子に撃退されています。その後も檜原では伊達・蘆名の軍事緊張が続き、このため蘆名氏は天正12(1584)年 米沢街道の要衝 大塩に柏木城を築き、また綱取城の改修を行なっています。同年、伊達家の家督を継承した伊達政宗は、家中の内紛が勃発して足並みが揃わない会津蘆名氏を攻略するため再度、檜原峠を越えて会津領檜原に侵攻します。そして政宗は穴沢一族の四郎兵衛を内応させて小谷山まで侵攻すると、檜原館、岩山城を急襲して穴沢俊光を自害に追い込み、檜原を制圧しました。同13(1585)年、政宗はさらに会津盆地への侵入を試みましたが、蘆名勢が激しく抵抗したため檜原に退却、この間 政宗は会津への前線基地として檜原城を築くと米沢に帰陣しました。そして政宗は檜原城に後藤孫兵衛信康を据え、蘆名方の柏木城への押さえとしました。その後、檜原で武力衝突はありませんでしたが、同17(1589)年 仙道口から会津に侵入した伊達勢に蘆名勢は「摺上原」で撃破され、会津盆地は政宗に制圧されました。この「摺上原の戦」の際、原田左馬之助宗時は檜原城から出撃して蘆名勢の後方を攪乱し 伊達軍の勝利に貢献したと伝えられます。檜原城は政宗の会津制圧により その役割を終え、ほどなく廃城になったものと思われます。なお『会津古塁記』檜原村舘 本丸東西二十七間 南北六十六間 二ノ丸東西十五間 南北四十五間 山高八十間堀幅六尺深三尺、天文始松本宮内漸方十八間地取して成らず、跡を天正十三乙酉年 伊達政宗在陣して斯の如く築き越年す。是より政宗舘と名ずく」と記されています。
歴史・沿革
檜原城 主郭西側の搦手虎口
メモ
伊達政宗が築いた会津攻略の軍事拠点
別名
政宗塁(舘)・小谷山城・檜原村舘
形態
山城(陣城)
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・桝形・堀
場所
場所はココです
駐車場
南西麓の登口に駐車場あり
訪城日
平成19(2007)年11月3日 平成20(2008)年11月8日
檜原城は檜原湖北岸の小谷山に築かれた山城で、西麓を米沢往還が通り、南西麓の旧檜原宿(現在は檜原湖に水没)を見渡せる要衝に位置します。(写真左上・右上) でっ、城の西ー南麓に「外構」外郭ライン)が構築され、内部に小さいながら城下集落が発達していました。でっ、城へは県道64号沿いの南西麓(写真左)と南麓(写真左下)に登り口が設けられ、南麓の登り口(「小谷山城升型入口」の誘導杭あり)が大手口とされます。どちらのルートも登りやすい山道が整備されています。(写真右下)
管理人は南麓からの大手ルートを選択し、しばらく登ると最初の城郭遺構が見えてきます。遺構は大手筋を遮断した三重堀切です。(写真左上・右上) 堀自体は深さ1−1.5mほどと浅く切っていますが、急斜面に構築されているため城側は巨大な壁になっています。でっ、堀切から導線は三の郭の西側側面から(写真右)、大手虎口に繋がり(写真左下)、導線はここで三の郭主郭方向に分岐します。三の郭は東西20m×南北60mほど、大手筋を防衛する前衛陣地として機能したのでしょう。(写真右下)
大手虎口から主郭への導線は比高15−20mの斜面に複雑にクランクさせた「多重桝形構造」で構築されています。(写真左上) 導線はスロープ状の土橋で横堀をこえ(写真右上)、そのあとは高さ2−3mの土塁で区画された堀底道を4度 クランクさせて主郭に入るように設定されています。(写真左・左下・右下) 陣城でこれだけ厳重で複雑な虎口構造を今まで見たことがなく、戦国の緊張感がヒシヒシと伝わる遺構です。なお複雑な虎口構造を施した城郭として、同じく伊達氏の「境目の城」 中山城でも見られ、檜原城に限った特殊な手法ではないようです。
主郭(写真左上) 規模は東西30m×南北60mほど、西ー南側斜面に不規則に腰郭群が2−3段 敷設されています。(写真右上) でっ、西側斜面に搦手口に想定される桝形虎口が構えられ(写真右)、導線は西麓の米沢街道に繋がっていたと思われます。
主郭・二の郭間は幅10m×深さ4−5mの堀で分断されています。(写真左下・右下) 比較的規模は大きく、両側面は竪堀で処理されています。
二の郭(写真左上) 規模は東西15m×南北40mほど。北側の尾根鞍部とは急峻な断崖で繋がっていて堀切はありません。虎口は南東隅に設けられ、南縁の土塁で区画された内桝形構造になっています。(写真右上)
主郭・二の郭の周囲は高さ10m前後の切岸で処理され(写真左)、下部に深さ1−1.5mの横堀がグルリと巡らされています。(写真左下・右下) でっ、往時 土塁部分には柵が巻かれていたのでしょう。
 
檜原湖方向(写真右) 小谷山の中腹から檜原湖方向を見たところです。手前に糖塚島、その奥に穴沢氏が籠もった岩山城が眺望できます。なお檜原湖は明治21(1888)年7月15日、磐梯山の噴火にともない堰き止められた湖で政宗の時代には存在していません。
ー 外  構  虎  口 ー
天正12(1584)年、会津に侵攻した伊達政宗は檜原館、岩山城を急襲して穴沢新右衛門俊光を自害に追い込み、檜原を制圧 前線基地として檜原城を築きました。この際、檜原城外郭ラインとして「外構」が構築され、内部に平常時の城主居館や家臣屋敷地、町屋が置かれ、小さいながらも檜原城下を形成していたと思われます。「外構」虎口は米沢街道から檜原城下に入る虎口にあたり 大型の桝形虎口だったようです。なお往時、「外構」は南に檜原宿を望む段丘上にあったものと思われます。
「外構」虎口は土塁と濠で区画された規模の大きい外桝形虎口(25−30m四方)で、城外(南側)から「外構」内部へコ状に導線が敷設されていたようです。でっ、導線は北⇒東⇒北方向にクランクします。
(写真左上) 虎口南側の導線の導入部。
(写真右上) 虎口の北側。北側の土塁は「外構」として東側に延びています。
(写真左) 虎口の北西端。
「外構」は虎口を中心に約300mにわたり残存しています。写真は虎口東側の外構縁部で高さ2−3mの土塁と幅1.5−2mほど濠が残存しています。 西側の「外構」土塁はかすかに形状を残しながら、直に檜原湖に消えています。
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