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檜原城は檜原湖北岸の小谷山に築かれた山城で、西麓を米沢往還が通り、南西麓の旧檜原宿(現在は檜原湖に水没)を見渡せる要衝に位置します。(写真左上・右上) でっ、城の西ー南麓に「外構」(外郭ライン)が構築され、内部に小さいながら城下集落が発達していました。でっ、城へは県道64号沿いの南西麓(写真左)と南麓(写真左下)に登り口が設けられ、南麓の登り口(「小谷山城升型入口」の誘導杭あり)が大手口とされます。どちらのルートも登りやすい山道が整備されています。(写真右下) |
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管理人は南麓からの大手ルートを選択し、しばらく登ると最初の城郭遺構が見えてきます。遺構は大手筋を遮断した三重堀切です。(写真左上・右上) 堀自体は深さ1−1.5mほどと浅く切っていますが、急斜面に構築されているため城側は巨大な壁になっています。でっ、堀切から導線は三の郭の西側側面から(写真右)、大手虎口に繋がり(写真左下)、導線はここで三の郭と主郭方向に分岐します。三の郭は東西20m×南北60mほど、大手筋を防衛する前衛陣地として機能したのでしょう。(写真右下) |
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大手虎口から主郭への導線は比高15−20mの斜面に複雑にクランクさせた「多重桝形構造」で構築されています。(写真左上) 導線はスロープ状の土橋で横堀をこえ(写真右上)、そのあとは高さ2−3mの土塁で区画された堀底道を4度 クランクさせて主郭に入るように設定されています。(写真左・左下・右下) 陣城でこれだけ厳重で複雑な虎口構造を今まで見たことがなく、戦国の緊張感がヒシヒシと伝わる遺構です。なお複雑な虎口構造を施した城郭として、同じく伊達氏の「境目の城」 中山城でも見られ、檜原城に限った特殊な手法ではないようです。 |
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主郭(写真左上) 規模は東西30m×南北60mほど、西ー南側斜面に不規則に腰郭群が2−3段 敷設されています。(写真右上) でっ、西側斜面に搦手口に想定される桝形虎口が構えられ(写真右)、導線は西麓の米沢街道に繋がっていたと思われます。 |
主郭・二の郭間は幅10m×深さ4−5mの堀で分断されています。(写真左下・右下) 比較的規模は大きく、両側面は竪堀で処理されています。 |
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二の郭(写真左上) 規模は東西15m×南北40mほど。北側の尾根鞍部とは急峻な断崖で繋がっていて堀切はありません。虎口は南東隅に設けられ、南縁の土塁で区画された内桝形構造になっています。(写真右上) |
主郭・二の郭の周囲は高さ10m前後の切岸で処理され(写真左)、下部に深さ1−1.5mの横堀がグルリと巡らされています。(写真左下・右下) でっ、往時 土塁部分には柵が巻かれていたのでしょう。 |
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檜原湖方向(写真右) 小谷山の中腹から檜原湖方向を見たところです。手前に糖塚島、その奥に穴沢氏が籠もった岩山城が眺望できます。なお檜原湖は明治21(1888)年7月15日、磐梯山の噴火にともない堰き止められた湖で政宗の時代には存在していません。 |
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