岩 山 城
福島県耶麻郡北塩原村桧原字細野山国有林
立地・構造
 岩山城は檜原湖の北側、南西から北方向に半島状に張り出した通称 堂場山(標高899m 比高70m)に築かれた山城で、大きくは尾根上に連郭式に普請された主郭ー二の郭ー三の郭主郭北側尾根の出丸からなる直線連郭構造の城郭です。主郭は東西20m×南北60mほど、南北に低い段差で平場が構築されています。主郭南側の二の郭は60−70m四方ほどの規模。尾根を土塁状に加工し 東側斜面を切り崩して普請した平場からなります。土塁の中央に幅6−7m四方の土壇があり櫓台が想定されます。三の郭は東西50−60m四方ほど。二の郭同様 尾根を利用した土塁の東側斜面に郭を構築しています。各郭間は自然地形を利用した堀で分断され、三の郭・二の郭間の規模は幅20−25m×深さ15mほど。大手は北側、搦手は南西側と推測されていますが具体的には不明。城域が丘陵全体に及ぶ広大な城館ですが、尾根上に築かれた平場はどれも小規模なもので多数の兵の駐屯は無理と思われます。また城域が広いため構築されたパーツは自然地形を微妙に加工しただけのものが多いように思われます。(緊急を要したため築城期間が制約したためか?)

 永禄7(1564)年、裏磐梯檜原を支配していた会津黒川城主 蘆名氏の被官 穴沢加賀守俊恒は伊達領に繋がる米沢街道を守備監視し、さらに檜原金山を管理するため戸山城を築きました。そして翌8(1565)年、戸山城は背後の北側尾根から石川但馬の率いる伊達勢の攻撃を受けましたが、徹底抗戦の末 伊達勢を撃退しました。しかし背後にウイークポイントがあることを痛感した俊恒は、同年 戸山城を破却して米沢街道を正面に見据える堂場山に新たに新城(岩山城)を築きました。そして翌9(1566)年、穴沢俊恒、俊光父子は岩山城で伊達勢の奇襲を撃退しています。『檜原戦物語』によると天正十二(1584)年十一月二十六日、檜原宿に来た風呂屋(遊興・娯楽施設をともなったサウナ)で穴沢一族が酒食に興じている最中に、伊達政宗は檜原宿を急襲して穴沢一族を惨殺したと伝えられます。この際、岩山城からも応援部隊が檜原宿に向かいましたが伊達勢に迎撃され、穴沢俊恒、俊光父子は自害し 穴沢一族は族滅させられました。(岩山城落城は天正13年とする説もあるようです) そして岩山城は落城後、伊達軍により破却されたと推測されます。俊光の嫡子 俊次は所用でたまたま岩山城を留守にしていたため難を逃れ、この後 柏木城に入って伊達勢と対峙しました。
歴史・沿革
岩山城 二の郭の櫓台祉
メモ
穴沢氏が築いた伊達氏に対する前線基地
形態
山城
別名
・・・・・・・・・ 
遺構
郭(平場)・土塁・櫓台祉?・堀
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成20(2008)年11月7日
岩山城は檜原湖に突き出した半島状の丘陵上に築かれた山城で、頂部の主郭と南側稜線の二の郭ー三の郭、北側の出丸からなります。(写真左上) 現在、城址は檜原湖に突き出していますが、岩山城の活動期に檜原湖は存在しておらず、西麓に米沢街道 檜原宿がありました。(現在、檜原宿は檜原湖の湖底に沈んでいます) 城へは県道64号沿いから堂場山どんぐり探勝路と呼ばれる山道が整備され(写真右上ー登り口 写真左・左下ー散策路)、丘陵を2度 登り降りすると城址標柱の建つ三の郭に辿り着きます。(写真右下)
三の郭(写真左上) 尾根を利用したと思われる土塁(写真右上ー現在は散策路)の東側斜面を削平して構築されているようですが、内部は竹笹が生い茂り平場の全容は不明。規模は東西50−60m四方ほどか。北側は尾根鞍部を利用したと思われる堀で二の郭と遮断されています。(写真右) 堀の規模は幅20−25m×深さ15mほど。
二の郭(写真左下) 三の郭と同様、土塁(稜線尾根)の東側斜面を削平して平場としています。規模は60−70m四方ほどか?。土塁中央の幅の広い部分は櫓台が想定されています。(写真右下)
二の郭の北西側には沢が切り込み、主郭二の郭を分断しています。(写真左上)
主郭(写真右上) 堂場山の頂上に位置しますが、探勝路沿いは熊笹で覆われているため遺構等は確認できません。ここから尾根は北ー北西の2方向に分岐し、北側尾根の先端に出丸と思われる郭があるようですが ・・・・・、雨が酷くなったためここで退却しました。 
(写真左) 白布峠から見た檜原湖方向
ー 戸  山  城 ー
永禄7(1564)年、穴沢俊恒が会津侵攻を目論む伊達氏に対する抑えと檜原金山を統治する支配拠点として築いた山城。翌年、戸山城は背後の北側尾根から伊達軍の奇襲を受けたため、穴沢俊恒は新たに岩山城を築いて戸山城は破却されました。城は檜原湖北西岸の標高1037m(比高210m)の独立丘陵に築かれた山城です。
会津に来る度にいつも登ろうと思う戸山城ですが ・・・・・、今回もスルーしちゃいました。なんか ・・・・・ 気が乗らなくて ・・・・・。でっ、戸山城の南東麓の山神社周辺が穴沢氏の平時の居館 檜原館とされ、鳥居は旧檜原宿方向を向いています。(写真左上) でっ、旧檜原宿は明治21(1888)年 磐梯山の噴火でできた檜原湖の湖底15mに沈んでいます。
現檜原地区には穴沢氏の五輪塔が八基 残されています。五輪塔は旧檜原宿にあったものを現在地に移したものだそうです。(写真右上)(場所はココです)
秋田の中世を歩く