戸 山 城
福島県耶麻郡北塩原村檜原字西吾妻国有林
立地・構造
 戸山城は檜原湖の北西端、北から南方向に張り出した丘陵ピーク(標高1037m 比高210m)に築かれた山城です。城の東・西側は急峻な断崖になっていて、北側の丘陵続きを三重堀で仕切って城域を区画しています。城の規模は東西100m×南北300mほど、城縄張りは頂部ピークに築かれた主郭を中心に北側に段差で区画された郭群が配置され、大手筋に想定される南ー南西側斜面は7−8段の
戸山城 概念図
帯郭群に加工され、自然地形に即したいたってシンプルな構造になっています。主郭の規模は東西15m×南北30mほど、規模は比較的小さいものの、北側の郭を含めるとまとまった平場になっています。大手筋は南東麓からのルートが想定され、中腹の尾根先端には出丸と思われる平場が設けられ、土橋で主郭方向に繋がっています。戸山城の見どころは南西側斜面に構築された高低差のある二重横堀で、特に上部の横堀は総延長80mほど、北側の端部は竪堀で処理されています。また下部の横堀は最下段の帯郭から繋がったもので中間部に井戸祉と思われる窪地が確認できます。戸山城は高所を要害として取り立てた山城で、一部に技巧的な部分も見られますが、全体的には普請が荒く、急ごしらえで造成したという印象があります。同地は会津ー西置賜を結ぶ米沢街道 檜原宿を望む高所に位置しており、本来 街道筋を監視する物見砦だったものを後世、改修したものと思われます。

 城主 穴沢氏は「会津太守」 会津蘆名氏の被官で檜原館戸山館)を拠点に蘆名領米沢口を守備していたと伝えられます。文明年間(1469−87年)、越後国広瀬郷出身の穴沢越中守俊家は蘆名修理大夫盛高に仕え、弟の通恒とともに檜原萱峠で山賊を討伐し、そしてこの功により 俊家は檜原の地を宛がわれたと伝えられます。(『檜原軍物語』) そして檜原に入封した俊家は支配拠点として檜原館を築き、その後 檜原館の背後に要害として戸山城を築いたと推測されます。永禄7(1564)年、米沢城主 伊達晴宗は檜原峠に出兵しましたが、事前に伊達勢の動きを察知した穴沢俊恒は檜原峠で伊達勢を迎撃し撤退させています。そしてこの頃、俊恒は米沢街道を監視し、また伊達勢に対する抑えとして戸山城を改修したと推測されます。『檜原軍物語』によると永禄八(1565)年七月十七日、ふたたび檜原に侵攻した遠藤左馬助率いる伊達勢は戸山城の北側尾根から戸山城に侵入しましたが、穴沢勢の徹底抗戦を受けて撤退しています。しかし戸山城は落城しなかったものの、穴沢俊恒は戸山城が北側尾根からの攻撃に脆いことから、檜原宿の南方 堂場山に新たに岩山城を築き、この際 戸山城は破却されたものと思われます。
歴史・沿革
戸山城 南西側斜面の横堀
メモ
蘆名領米沢口を守備した穴沢氏の「要害」
形態
山城
別名
・・・・・・・・
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・土橋・堀・井戸祉
場所
場所はココです
駐車場
県道沿いの登り口に駐車可能の路側帯あり
訪城日
平成22(2010)年5月1日
戸山城は檜原湖北西岸の丘陵ピークに築かれた山城で、「東北」では最高所(標高1037m)に位置する山城です。(写真左上) 城へは特に登山道はなく 管理人は南東麓の「戸山城南大手登口」あたりから入山し(写真右上)、あとは南側斜面をひたすら直登しました。麓部分で竹笹をかき分け(写真左)、中腹からは雑木の中を登ることになります。(写真左下) でっ、中腹からは檜原湖と檜原湖を挟んだ対岸に岩山城を望むことができます。(写真右下) ちなみに戸山城が活動した戦国期、檜原湖はまだなく、戸山城岩山城の谷間に米沢街道檜原宿がありました。
斜面を登ること30分ほどで、尾根先端部分の大手出丸に辿り着きます。(写真左上) 出丸の規模は東西40m×南北10−15mほど、内部は3−4段の段郭群で処理され、主郭側の斜面とは土橋で繋がっています。(写真右上) でっ、土橋からの大手導線は主郭の南側斜面を「つずら折れ」に登るように設定され(写真右)、途中 高低差と土塁で区画された「折れ虎口」が見られます。(写真左下) また導線から南西側斜面に帯郭が派生しています。(写真右下)
戸山城の見どころのひとつが南西側斜面に構築された高低差のある二重横堀でしょう。檜原城の横堀に比べると規模はそれほど大きなものではありませんが、急ごしらえにしてはよくできています。(写真左上ー下の横堀 写真右上ー上の横堀) また下の横堀の中間に井戸祉と思われる窪地が確認できます。(写真左)
さらに二の郭の西側下の斜面に武者隠し?と思われる小郭が構築され(写真左下)、下にZ状の堀(溝?)が確認できます。(写真右下)
主郭の南側斜面は7−8段の帯郭群で処理されていますが、雪で覆われているため明瞭ではありません。規模は幅5m前後、写真を見ただけでは横堀のようにも見えます。(写真左上) でっ、辿り着いた主郭も一面の雪景色(写真右上)、規模は東西15m×南北30mほど。北側に二の郭が配置されていますが、痩尾根を削平しただけの小規模な平場のようです。(写真右・左下ーなにぶん雪の為 地表面は見えず) 二の郭の北側稜線は規模の大きい堀切で断ち切り、主郭・二の郭の城中枢を独立させています。(写真右下)
二の郭北側の堀切の規模は幅7−8m×深さ4−5mほど、西側斜面は長大な竪堀で処理されています。(写真左上) さらに北郭(たぶん郭として認識できるものではないようですが ・・・・・ )の北側に幅3−4m×深さ1−2m、幅2−3m×深さ1mの小規模な堀切が2条 敷設され、北側稜線は三重堀で防御されています。(写真右上ー2条目の堀切 写真左ー3条目の堀切) 『檜原軍物語』によると永禄八年、戸山城攻略に動いた伊達勢はこの北側尾根から戸山城に侵入したとされます。
穴沢氏が日常居館とした檜原館(戸山館)は県道から檜原湖に突き出した丘陵縁に位置し、現在 山神社境内、集合墓地になっています。(写真左上) 往時、檜原館は比高差15−20mの段丘上にあったと思われ、現在 檜原湖に沈む旧檜原宿方向に向かう山神社の鳥居と杉並木跡が残ります。(写真右上)
現 檜原集落の村はずれに明治21(1888)年、磐梯山の噴火により湖底に沈んだ穴沢氏の五輪塔が八基 移されています。(写真右)
秋田の中世を歩く