小 谷 城
滋賀県長浜市(旧湖北町)湖北町伊部
立地・構造
 小谷城は琵琶湖の北東岸、小谷山から南東方向に張り出した稜線尾根(標高300m−398m)を城域とした山城です。規模は東西200m×南北2000mほど、城縄張りは稜線を階段状に加工した連郭構造で構築され、北から山王丸ー小丸ー京極丸ー中の丸ー主郭ー大広間ー桜の馬場ー御馬屋ー御茶屋ー番所が敷設されています。また番所の南側ピークに金吾丸が、南側稜線の突端に出丸が設けられていました。規模は主郭が東西25m×南北45−50m、大広間が東西30−35m×南北100m、京極丸が東西40m×南 小谷城 現地説明板の図
小谷城 現地説明板の図
北60−65m、山王丸が東西30m×南北80mほど。主郭・中の丸間が大規模な堀切で断ち切られている以外は段で区画されたシンプルな構造になっています。また導線・虎口もいたってシンプルな構造になっています。発掘調査により大広間から建物礎石や井戸祉が確認され、また各所から石積の痕跡が見られます。なお小谷山には大嶽城が構築され、小谷山から南西方向に延びた稜線に山崎丸、福寿丸といった小砦群が、東方向に延びた稜線突端に月所丸が敷設されています。小谷山から北東、北西方向に馬蹄状に延びた谷戸(清水谷)前面に濠が敷設され、内部に城主居館、家臣屋敷地(「根小屋」)が構えられていました。

 小谷城は大永4(1524)年、浅井備前守亮政により築かれたと伝えられます。浅井氏は平安末ー鎌倉初期頃からの在地国衆で、南北朝以降 近江国守護職 京極氏の影響下にありました。大永3(1523)年、京極高清の跡目をめぐり内訌が勃発すると浅井亮政は高清の嫡子 高延を擁して次子の高慶を擁した執政 上坂信光と対峙し、高清、上坂信光を近江から追い落としました。さらに亮政は有力国衆の浅見貞則を追い落として国人一揆の盟主となり、京極家の実権を掌握しました。しかしこのため亮政は南近江の六角弾正少弼定頼と対立し、翌4(1524)年 亮政は高清、高延父子を小谷城に迎えて和睦しました。その後、亮政は十数年にわたり六角氏と(いくさ)を繰り広げましたが、この間 越前朝倉氏と同盟を結び 京極家中の国人衆を固めるなど、着実に戦国大名へと成長しました。天文11(1542)年、亮政が死去すると嫡子の下野守久政が家督を継承し、久政は湖北の在地勢力を被官化して支配を絶対的なものとし、この頃 小谷城の拡張整備が施されたものと思われます。しかし久政の代に浅井氏は六角勢の攻勢に抗しきれず、浅井氏は六角氏の影響下に組み込まれました。このため永禄3(1560)年、六角への従属に不満をもつ赤尾、遠藤、安養寺氏等が久政の嫡子 備前守賢政(長政)を擁してクーデターを起こし久政に隠居を強要しました。そして長政は正室(六角氏の重臣 平井氏の(むすめ))を離縁して、六角との対立姿勢を鮮明にしました。永禄6(1563)年、六角家中で「観音寺騒動」が勃発すると長政はこれに乗じて六角領に侵攻し、義賢、義治父子を観音寺城から追い落とし六角からの独立を果たしました。翌7(1564)年、長政は織田信長の妹 市を娶り、織田と同盟関係を結びます。同11(1568)年、織田信長は足利義昭を奉じて上洛しますが、この際 長政は信長と行動をともにし敵対する六角を近江から駆逐しました。しかし元亀元(1570)年4月、浅井氏が同盟する織田と越前朝倉が対立し、織田による「朝倉討伐」が開始され織田勢が若狭に侵入すると、長政は朝倉方に加担して織田の背後を脅かし織田勢を潰走させました。同年6月、信長は小谷城南麓の姉川で浅井・朝倉連合軍との(いくさ)に勝利すると(「姉川の戦」)、付城として横山城、虎御前山城を築いて小谷城攻めを本格化させます。天正元(1573)年、信長は畿内の反対勢力を鎮圧すると小谷城攻めを本格化させ、長政が「詰城」として整備した大嶽城を内応により占拠し、朝倉勢を小谷城から撤退させました。そして織田勢は朝倉勢を追撃して越前に侵攻し、一乗谷を制圧して朝倉氏を滅亡させました。その後、織田軍は後詰のない小谷城に猛攻をくわえて陥落させ、浅井氏は滅亡しました。戦後の戦功行賞で浅井領は羽柴秀吉に給されましたが、秀吉は長浜に新たな城を築くと小谷城を廃しました。
歴史・沿革
小谷城 山王丸の石垣
メモ
湖北の有力国人 浅井氏の「要害」
形態
山城
別名
・・・・・・・・ 
遺構
郭(平場)・土塁・石積・虎口・堀・土橋・水の手
場所
場所はココです
駐車場
南麓の登山道入口の駐車場 OR 中腹の金吾丸前に駐車場スペースあり
訪城日
 平成17(2005)年5月27日 平成18(2006)年7月4日
小谷城は琵琶湖の北東岸、小谷山大嶽城)から南東方向に張り出した稜線尾根に築かれた山城です。(写真左上ー南側からの遠景) でっ、南麓に大手口が設けられていたようです。(写真右上)
金吾丸(写真左) 規模は東西20m×南北60mほど、内部は3−4段構造になっているようです。大永5(1525)年、小谷城が六角勢の攻撃を受けた際、越前の朝倉金吾教景がここに布陣したと伝えられます。
番所祉(写真左下) 御茶屋(写真右下) 低めの土塁で囲まれた郭で規模は東西60m×南北30mほど。
御馬屋敷(写真左上) 西ー南ー東縁を土塁で囲まれ規模は50m四方ほど、北東側に馬洗池と呼ばれる池が残存しています。(写真右上)
首据石(写真右) 天文2(1533)年、六角氏と対峙していた浅井亮政が六角に通じた今井秀信を誅殺し、秀信の首をここに曝したと伝えられます。
赤尾屋敷(写真左下) 規模は東西20m×南北50mほど。浅井長政は天正元(1573)年8月28日、ここで自刃したと伝えられます。 (写真右下) 桜の馬場
黒金門(写真左上) 主郭・大広間の表門で大広間の南東隅に設けられています。でっ、門に隣接した南ー東側の切岸に相当量の石塁が崩落しており、往時 切岸部分は石積で構築されていたのでしょう。(写真右上) 
大広間(写真左) 別名 「千畳敷」。規模は東西30−35m×南北100mほど、内部から発掘調査により建物礎石や井戸祉が確認されており、有事の際の上屋敷が想定されます。なお南縁に土塁が築かれ(写真左下)、北側に主郭が構えられていました。(写真右下)
主郭(写真左上) 規模は東西25m×南北45−50mほど、内部は南北の2段に加工されています。往時、ここに二層の櫓が構えられ、のちに長浜城彦根城に移築されたと伝えられます。また東西の側面に竪土塁が築かれ、東側は導線を潰し(写真右上)、西側は虎口が設けられ大広間ー中の丸間への導線が確保されています。(写真右) 
主郭中の丸間を画した堀は幅15−20m×深さ7−8mほど、自然の鞍部を利用したと思われますが巨大です。(写真左下) でっ、中の丸側に岩盤を削り込んだあとが見られます。(写真右下)
中の丸(写真左上・右上) 規模は東西30m×南北60−65mほど、内部は1.5−2mの段で区画された南北の三郭構造。でっ、導線は大堀切の西端から「折れ虎口」で繋がっています。(写真左) また中段に刀洗池と呼ばれる水の手が設けられていたようです。(写真左下)
京極丸(写真右下) 規模は東西40m×南北60−65mほど、東ー南ー西側下に腰郭が敷設され、まとまった平場になっています。一説に大永4(1524)年、浅井亮政が京極高清、高延父子を迎えた郭とも。(場所はココです)
(写真左上) 京極丸の虎口
(写真右上) 京極丸の東土塁
小丸(写真右) 規模は東西60−65m×南北30mほど、内部は東西の2段構造。天正元(1573)年8月27日、小丸は羽柴勢に占拠され、浅井久政はここで自刃したと伝えられます。
(写真右下) 小丸の虎口
山王丸の虎口のある南側斜面には相当量の石塁が崩落し(写真右下)、また東側側面に高さ5mの「野面積」の石垣が残存しています。
(写真左上) 山王丸の東石垣
(写真右上) 山王丸の虎口 
山王丸(写真左) 規模は東西30m×南北80mほど、内部は南北3−4段に加工され、各段に虎口がキッチリ残っています。(写真左下) また最上段の南縁に石積の土塁が築かれています。(写真右下)(場所はココです)
六坊(写真左上・右上) 大嶽城山王丸の鞍部に設けられた宗教施設祉らしいです。内部はいくつかの段で区画され、浅井久政の代に出坊が置かれたとされます。
秋田の中世を歩く