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小谷城は琵琶湖の北東岸、小谷山(大嶽城)から南東方向に張り出した稜線尾根に築かれた山城です。(写真左上ー南側からの遠景) でっ、南麓に大手口が設けられていたようです。(写真右上) |
金吾丸(写真左) 規模は東西20m×南北60mほど、内部は3−4段構造になっているようです。大永5(1525)年、小谷城が六角勢の攻撃を受けた際、越前の朝倉金吾教景がここに布陣したと伝えられます。 |
番所祉(写真左下) 御茶屋(写真右下) 低めの土塁で囲まれた郭で規模は東西60m×南北30mほど。 |
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御馬屋敷(写真左上) 西ー南ー東縁を土塁で囲まれ規模は50m四方ほど、北東側に馬洗池と呼ばれる池が残存しています。(写真右上) |
首据石(写真右) 天文2(1533)年、六角氏と対峙していた浅井亮政が六角に通じた今井秀信を誅殺し、秀信の首をここに曝したと伝えられます。 |
赤尾屋敷(写真左下) 規模は東西20m×南北50mほど。浅井長政は天正元(1573)年8月28日、ここで自刃したと伝えられます。 (写真右下) 桜の馬場 |
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黒金門(写真左上) 主郭・大広間の表門で大広間の南東隅に設けられています。でっ、門に隣接した南ー東側の切岸に相当量の石塁が崩落しており、往時 切岸部分は石積で構築されていたのでしょう。(写真右上) |
大広間(写真左) 別名 「千畳敷」。規模は東西30−35m×南北100mほど、内部から発掘調査により建物礎石や井戸祉が確認されており、有事の際の上屋敷が想定されます。なお南縁に土塁が築かれ(写真左下)、北側に主郭が構えられていました。(写真右下) |
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主郭(写真左上) 規模は東西25m×南北45−50mほど、内部は南北の2段に加工されています。往時、ここに二層の櫓が構えられ、のちに長浜城⇒彦根城に移築されたと伝えられます。また東西の側面に竪土塁が築かれ、東側は導線を潰し(写真右上)、西側は虎口が設けられ大広間ー中の丸間への導線が確保されています。(写真右) |
主郭・中の丸間を画した堀は幅15−20m×深さ7−8mほど、自然の鞍部を利用したと思われますが巨大です。(写真左下) でっ、中の丸側に岩盤を削り込んだあとが見られます。(写真右下) |
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中の丸(写真左上・右上) 規模は東西30m×南北60−65mほど、内部は1.5−2mの段で区画された南北の三郭構造。でっ、導線は大堀切の西端から「折れ虎口」で繋がっています。(写真左) また中段に刀洗池と呼ばれる水の手が設けられていたようです。(写真左下) |
京極丸(写真右下) 規模は東西40m×南北60−65mほど、東ー南ー西側下に腰郭が敷設され、まとまった平場になっています。一説に大永4(1524)年、浅井亮政が京極高清、高延父子を迎えた郭とも。(場所はココです) |
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(写真左上) 京極丸の虎口 |
(写真右上) 京極丸の東土塁 |
小丸(写真右) 規模は東西60−65m×南北30mほど、内部は東西の2段構造。天正元(1573)年8月27日、小丸は羽柴勢に占拠され、浅井久政はここで自刃したと伝えられます。 |
(写真右下) 小丸の虎口 |
山王丸の虎口のある南側斜面には相当量の石塁が崩落し(写真右下)、また東側側面に高さ5mの「野面積」の石垣が残存しています。 |
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(写真左上) 山王丸の東石垣 |
(写真右上) 山王丸の虎口 |
山王丸(写真左) 規模は東西30m×南北80mほど、内部は南北3−4段に加工され、各段に虎口がキッチリ残っています。(写真左下) また最上段の南縁に石積の土塁が築かれています。(写真右下)(場所はココです) |
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六坊(写真左上・右上) 大嶽城と山王丸の鞍部に設けられた宗教施設祉らしいです。内部はいくつかの段で区画され、浅井久政の代に出坊が置かれたとされます。 |