江 馬 輝 盛 の 墓 所
岐阜県高山市(旧国府町)国府町八日町
 江馬輝盛は戦国末期、飛騨国北部 高原郷を領有した飛騨の有力国衆です。江馬氏は桓武平氏経盛流を称し、『飛州志』所収の『江馬氏系図』によると「平清盛の弟経盛の妾腹の子 輝経が伊豆の北条時政に養育され、伊豆国田方郡江馬荘に住したことから江馬小四郎と名乗った」とされます。(江馬氏の出自に関しては諸説あり) 江馬氏が飛騨に入封した時期は不詳、鎌倉末期頃までには高原郷の地頭職として入部し、以後 高原郷の在地領主を傘下に組み込んで勢力を拡大したものと思われます。永禄年間(1558-70年)、江馬左馬介時盛、常陸介輝盛父子は飛騨に侵攻した武田の勢力下に置かれ、上杉と誼を通じる南飛騨の三木氏と対峙しました。しかし元亀年間(1570ー73年)、時盛が次男の右馬允信盛、実弟の麻生野右衛大夫直盛(洞城主)の子 慶盛に江馬家の家督を譲ろうと画策したことから嫡子の輝盛と対立します。そして輝盛は天正元(1573)年、上洛途上の武田信玄が急死したとの報を察知すると上杉に内通し、父 時盛と麻生野慶盛を殺害して江馬家の家督を奪取しました。天正4(1576)年、越中を制圧した上杉が飛騨に侵攻すると輝盛姉小路(三木)自綱とともに上杉に降伏し その勢力下に置かれました。しかし同6(1578)年、上杉謙信の死去により飛騨から上杉勢力が撤退すると、三木自綱は織田信長と誼を通じて江馬氏と対峙し このため輝盛は孤立します。そして同10(1582)年6月、信長が「本能寺」で横死して織田勢力が霧散すると、同年10月 輝盛は飛騨一統を目論み 大阪峠を越えて古川盆地の谷口 梨打城に入ります。しかし江馬勢は三木、小島、牛丸、広瀬連合軍の猛攻を受けて敗北を喫し輝盛はこの地で討死したとされます。(「八日町の戦」) 墓石は安国寺の僧により建立されたと伝えられます。(場所はココです)
江馬輝盛の墓所
江馬輝盛の墓碑
江馬輝盛の墓碑
輝盛の戒名
「旭光院殿天岳良英大居士」
江馬時政の腹切石
江馬時政の
腹切石
江馬時政輝盛の嫡子。天正10(1582)年の「八日町の戦」後、金森長近を頼って越前に遁れ、同13(1585)年 長近が飛騨侵攻を開始するとこれに参加しました。しかしその後、時政は長近と対立して武力蜂起しましたが金森勢に鎮圧され、時政はこの石に腰をかけ自害したと伝えられます。
梨打城
梨打城