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赤石館は赤石川下流域の右岸、平野部に浮かぶ微高地に築かれた単郭の平城らしいです。規模は東西60m×南北70mほど、周囲との比高差は3−4mほどあり、現在
周囲は水田になっていますが、往時は濠で囲まれていたと推測されます。内部は未確認のため不詳。
築城時期は不明。『羽顕記』によると建仁年間(1201−03年)頃、由利氏の支配下にあった在地領主の赤石兵部維怒により築かれたとされ、院内山根館を拠点と |
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した由利氏の支城と伝えられます。正中2(1324)年、由利仲八郎政春が鳥海弥三郎に滅ぼされた後も赤石氏は生きながらえ、室町ー戦国期 由利郡南西部を勢力下に置いた「由利十二頭」 仁賀保氏に出仕したとされます。『院内山根館絵図』に山根館表御門前に「赤石殿」「黒川殿」と記された屋敷地があることから赤石氏は仁賀保氏の重臣だったと推測されます。赤石氏の詳細な事績は不明ですが、『由利十二頭記』(あまり使いたくないのですが ・・・・・)に天正十五年 矢島大井氏と仁賀保氏が和睦した際、仁賀保氏が家臣 赤石与兵衛を大井矢島満安に遣わしたことが記されています。慶長7(1602)年、赤石備中、播磨は仁賀保氏の常陸転封に同道せず、後に佐竹氏に出仕したと伝えられます。 |
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「由利十二頭」 仁賀保氏の重臣 「赤石殿」の居館 |
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平城 |
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場所はココです |
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路上駐車 |
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平成20(2008)年5月12日 |
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赤石館は日本海に面した金浦地区背後の微高地に築かれた単郭の平城です。(写真左上・右上) 館は周囲の水田面より3−4mほど高く、不整形の方形館と推測されます。また館の北西側に石積で区画された虎口が見られますが、ま〜〜〜
後世のものなのでしょう。(写真左) なお内部は私有地のため入ることはできませんでした。 |
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