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安 子 島 城 |
福島県郡山市熱海町安子島字町.字南町.字桜畑安子島 |
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安子島城は五百川右岸の河岸段丘上(比高15−20m)に築かれた平山城(崖縁城)らしいです。全体の規模は不明、段丘上の主郭部は東西300m×南北160mほど、内部は東・西の2郭からなり南北堀で分断されていたようです。また北麓に外郭、町屋が設けられ、小規模ながら「惣構」になっていたと思われます。同地は安積から会津ー越後に繋がる越後街道の要衝に位置します。 |
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築城時期は不明。築城主体・城主は安子島氏とされます。安子島氏は鎌倉初期、陸奥国「安積郡」の地頭職に任ぜられた鎌倉御家人 工藤祐長を祖とする安積伊東氏の庶子家とされ、安積伊東氏が「安積郡」内に勢力を広げる過程で安子島を分知されて土着したものと思われます。安子島氏の詳細な事績は不明、南北朝ー室町期 惣領の安積伊東氏と行動をともにしていたと思われます。しかし15世紀中期以降、関東の争乱に巻き込まれて安積伊東氏が次第に勢力を衰退させると、会津黒川城主 蘆名氏が「安積郡」に侵攻します。このため安子島氏は安積伊東氏の支配下から離脱して会津蘆名氏の支配下に組み込まれました。天正12(1584)年、伊達家の家督を継いだ伊達政宗は仙道、会津への出兵を開始し、同13(1585)年
大内氏の小手森城を攻略、同14(1586)年 二本松畠山氏の二本松城を陥落させて仙道を制圧します。そして同17(1589)年、佐竹常陸介義重の次男 義広の蘆名家入嗣をめぐり蘆名家中が混乱すると 伊達政宗は安積から「会津侵攻」を開始し、このため安積から会津への街道筋に位置する安子島城は伊達勢の猛攻を受けることとなります。この際、安子島城主 安子島治部省輔は伊達勢に徹底抗戦しましたが、抗しきれないと判断すると安子島城を開城して会津へ退きました。その後、安子島城は伊達氏が安積ー会津間の「繋ぎの城」として利用したと思われますが、同18(1590)年の「奥州仕置」により伊達氏が会津から撤退すると、ほどなく廃城になったものと思われます。 |
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安積伊東氏の庶流 安子島氏の館城 |
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平山城 |
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・・・・・・・・・ |
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郭(平場祉)・堀祉 |
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場所はコノヘンです |
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路上駐車 |
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平成22(2010)年6月2日 |
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安子島城は安子島地区背後の河岸段丘先端に築かれた平山城(崖縁城)です。(写真左上) 現在、城址は水田、耕作地に改変されているため遺構等は確認できませんが、段丘の東端部に自然の沢を利用したと思われる巨大な堀が見られます。(写真右上)
また発掘調査では東・西2郭からなる主郭部と、両郭を遮断した南北堀、さらに両郭の導線となった土橋が確認されています。 |
(写真左) 城址碑 |
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