篠 川 城
福島県郡山市安積町笹川字篠川.字高瀬.字東舘
立地・構造
 篠川城は安積平野の南東部、阿武隈川左岸の微高地(自然堤防)に築かれた平城で、阿武隈川を自然の濠とし、北ー西ー南側を人為的な堀で区画して城域としていたようです。『日本城郭大系』によると城域は現在の笹川地区を包括する広大な空間だったようですが全体の規模は不明。現在、城郭遺構として確認できるのは東館稲荷が祀られる通称 東館主郭か?)と東館の南側の平場(二の郭か?)のみ。規模は主郭が東西80m×南北70m、二の郭が東西80m×南北50mほど、両郭間は幅7−8mの堀で区画されていました。主郭の西縁に土塁(櫓台?)が築かれていることから西側を意識した構造になっていたと思われます。周囲は住宅地により相当 改変されていますが、主郭・二の郭部分は
比較的 改変が少なく、周囲に()祉が確認できます。

 築城時期・築城主体ともに不明。篠川城の史料上の初見は元弘三(1333)年の『石河光隆着到状』に記載された「・・・・・ 於奥州安積郡佐々河城 ・・・・・」との記事で、これにより篠川城は鎌倉末ー南北朝初期頃、城砦として取り立てられていたものと思われます。応永6(1399)年、幕府と和睦して陸奥、出羽国を「鎌倉府」の管轄下においた鎌倉公方 足利左兵衛督満兼は、奥州の反鎌倉府勢力を抑えるため、弟の左兵衛佐満直を安積郡篠川に、同じく弟の満貞を安積郡稲村に下向させます。そしてこの際、満直が篠川城を守護所としたことから「篠川御所」と呼ばれました。同11(1404)年、満直は仙道の国人衆と一揆契約を結んで「伊達政宗の乱」を鎮圧しましたが、満兼の跡を継いだ甥の左兵衛督持氏(鎌倉公方)が将軍の後継者争いから将軍 義教と対立すると、「鎌倉府」から距離をおき幕府に近ずくようになります。このため永享10(1438)年、鎌倉公方 足利持氏と前「関東管領」 上杉憲実の対立から「永享の乱」が勃発すると、満直は田村、蘆名、石橋等の奥州軍を率いて幕府(「関東管領」)方に参陣しています。乱終結後、将軍 義教は関東を幕府の勢力下に置くべく画策しましたが、永享12(1440)年 旧公方 持氏方の残党 結城中務大夫氏朝は持氏の遺児 春王丸、安王丸兄弟を擁して幕府に叛旗を翻します。(『結城合戦』) そして乱は幕府軍により鎮圧されましたが、幕府方に加担した篠川城は結城方に与した奥州の国人衆の攻撃を受けて落城し、満直は自害したと伝えられます。その後、篠川城須賀川二階堂氏の属城となり、戦国期 二階堂氏の家臣 須田氏が在城したと伝えられます。天正17(1589)年、伊達政宗の「仙道侵攻」により落城、ほどなく廃城になったものと思われます。
歴史・沿革
篠川城 東館(主郭か?)
メモ
「篠川御所」 足利満直の守護所
形態
平城
別名
篠川御所
遺構
郭(平場)・土塁・櫓台?・()
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成21(2009)年11月20日
主郭(写真左上) 別称 東館、規模は東西80m×南北70mほど。阿武隈川を自然の濠とした東側以外は人為的な堀で区画されていたようです。(写真左ー北側の堀祉 写真左下ー西側の堀祉 写真右下ー南側の堀祉) 西縁に分厚い土塁(櫓台?)が残り、土塁上に現在 東館稲荷が祀られています。(写真右上) また東側の阿武隈川沿いに現在、堤防が建設されていますが、往時 ()は阿武隈川に繋がる湿地状の濠だったのでしょう。なお南側の堀は二の郭と仕切った堀で規模は幅7−8mほど。
二の郭(写真左上) 主郭の南側に位置し、規模は東西80m×南北50mほど。主郭同様、阿武隈川に面した東側以外は堀で区画されていたと思われます。(写真右上) 現在、内部は耕作地に改変されています。
秋田の中世を歩く