高 倉 城
福島県郡山市日和田町高倉字舘西.字舘東
立地・構造
 高倉城は安積平野の北部、阿武隈川と五百川に挟まれ北方向に張り出した丘陵突端(比高100m)に築かれた山城です。城の規模は東西100m×南北200mほど、南側稜線を堀切で断ち切って城域を独立させていたと思われます。頂部に構築された主郭は東西30m×南北80mほど、周囲を高さ1−1.5mの土塁で囲い、東側に虎口が設けられています。主郭の周囲は幅5−10mの帯郭で巻かれ、さらに東ー北ー西側斜面に段郭群を敷設して防御力を高めています。同地は田村三春から本宮に繋がる往還の要地、また阿武隈川舟運を扼する交通の要衝に位置します。

 築城時期・築城主体ともに不明。通説では15世紀中頃、二本松畠山宮内大輔満泰の嫡孫 近江守政泰が伯父の治部少輔持重との家督争いに敗れて高倉に移り、高倉城を築いたとされます。その後、高倉畠山氏は二本松畠山氏との対立関係を続けながら、独立勢力として政泰ー満国ー実詮ー晴賢ー氏詮と系統を繋げ、天正3(1575)年 田村清顕の「安積侵攻」により畠山近江守氏詮は田村氏の支配下に組み込まれました。しかし天正10(1582)年 高倉氏詮が田村氏の支配下から離脱したため、同年 高倉城は田村勢の攻撃を受けています。同13(1585)年、伊達政宗が二本松城攻略に動くと、佐竹、蘆名、岩城、石川、白川結城氏等は二本松城救援のため前田沢に進出します。一方、伊達政宗は二本松城に包囲部隊を残して本宮城、観音堂山に布陣して連合軍と対峙しました。この際、高倉氏詮は伊達方に加担し、高倉城には援軍として伊東肥前、富塚近江、桑折治部が入城しています。同18(1590)年、「奥州仕置」により「会」「岩瀬」「安積」は蒲生氏郷に宛がわれ、このため高倉氏詮は伊達領に退き、この際 高倉城は廃城になったものと思われます。
歴史・沿革
高倉城 北西側からの遠景
メモ
二本松畠山氏の庶流 高倉畠山氏の要害
形態
山城
別名
松峯城
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・堀
場所
場所はココです
駐車場
山清寺の墓地駐車場借用
訪城日
平成21(2009)年11月20日
高倉城は阿武隈川の西岸、高倉地区背後の丘陵上に築かれた山城です。(写真左上) でっ、城へは西麓の山清寺を目指して進み(写真右上)、境内背後の墓地の最上段に誘導杭が設置され、城祉まで山道が整備されています。(写真左) 山道は西側斜面につずらおれに敷設されており(写真左下)、ケッコウ楽に登れて、主郭南西側の郭に辿り着きます。(写真右下) 郭は主郭の周囲を囲った帯郭の南西部分になるようです。たぶんここから南側稜線に堀切があると思われるのですが ・・・・・・・・・、藪が酷く入り込める場所がないため未確認。
主郭の周囲を囲った帯郭は最大幅10mほど、管理人は南から東側に廻り込みました。(写真左上) でっ、東側斜面には虎口と思われる切り込みが見られ(写真右上)、本来の大手導線は東側斜面に設けられていたと思われます。
 
主郭(写真右)
規模は東西30m×南北80mほど、内部はま 〜〜〜、藪っていますが、思ったより広い平場になっています。縁部には高さ1−1.5mの土塁が築かれ(写真左下)、東側中央に虎口が切られ(写真右下)、東帯郭に繋がっています。
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