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八橋城は八橋川河口部の右岸、南から北方向に張り出した低丘陵の突端(比高15−20m)に築かれた平山城(丘城?)ですが、現在 城址はJRで南北に分断され遺構等は不明瞭になっています。城の規模・構造は『伯耆民談記』に「本丸 高さ二十六間、境地 南北三十二間、東西二十三間、めぐり 八十七間、南の隔に井あり、二の丸は本丸より東につずき下き事三間、東西二十七間、南北二十三間、東にむかって門の跡」 と記されています。 なお現 |
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在、八橋城とされている部分は八橋城の主郭に想定され、JRを挟んだ南側の段丘上も矢橋城の城域と推測されます。
築城時期・築城主体ともに不明。通説では伯耆の国衆 行松氏が築いた城砦と伝えられます。大永4(1524)年に開始された尼子の伯耆侵攻(「大永の五月崩れ」)により伯耆の諸城は尼子軍に攻略され、八橋城もこの際 落城したとされます。尼子支配下の八橋城には吉田左京亮が入城しましたが、左京亮は天文年間(1532−55年) 尼子の備中攻めの際に討死にし、家督は嫡子の源四郎が継ぎました。永禄7(1564)年、毛利と結んだ備中松山城主 三村修理亮家親は伯耆西部の法勝寺に進出して尼子と対峙します。そして翌8(1565)年、毛利・三村連合軍は八橋城に攻撃をしかけ、劣勢となった吉田源四郎は月山富田城へ落ち延びました。その後、八橋城には毛利配下の備後衆 杉原播磨守盛重が入り、数度にわたる吉田源四郎の八橋城攻略を撃退し、また羽衣石城主 南条豊後守宗勝と対峙しました。天正9(1581)年、盛重が病死すると次男の兵庫頭景盛が八橋城を相続しましたが、同11(1583)年 景盛は知行の配分に不満を持ち、兄の尾高城主 元盛を謀殺します。このため景盛は吉川治部少輔元長の攻撃を受けて討死にし、また同10(1582)年 毛利と織田(羽柴)の和議により伯耆東部は南条領となり、八橋城は南条氏に渡されました。慶長5(1600)年の「関ヶ原」で西軍に加担した南条氏は戦後 改易となり、伯耆には中村伯耆守一忠が入封し、八橋城には一忠の叔父の一栄が入城します。しかし同14(1609)年、一忠が嗣子なく死去したため中村家は改易となり、八橋城には美濃今尾から市橋長勝が入城しました。元和元(1615)年、因幡・伯耆二国は鳥取池田藩の藩領となり、寛永9(1632)年 分家筋の池田光仲が備前岡山から鳥取に入封すると、八橋城には重臣の津田将監が入城し、津田氏が「明治維新」まで居住しました。 |
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平山城(丘城?) |
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大江城 |
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郭(平場)・櫓台(土塁)?・石積? |
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場所はココです |
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JR八橋駅の駐車場借用 |
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平成21(2009)年3月26日 |
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八橋城はJR八橋駅に隣接した小丘陵に築かれた平山城で、城へは北東側の登口から遊歩道が整備されています。(写真左上) 遊歩道は北から西側に丘陵を巻くように敷設された道で、かなり趣のある道です。(写真右上)
でっ、途中には石積らしきものも確認できますが、往時の遺構かは不明。(写真左) 登り切った平場は主郭と思われます。(写真左下) でっ、平場の南側に櫓台(土塁)らしき高台があり、稲荷社が祀られています。(写真右下) この背後にはJR山陰線が通っていますが、ロケーションから推測すると堀があったのかも。 |
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