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守 山 城 |
福島県郡山市田村町守山字三の丸 字小性町 字殿町 |
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守山城は安積平野の南東部、黒石川左岸の河岸段丘上(比高20m)に築かれた丘城です。城は北ー東ー南側を流れる黒石川の浸食作用によって形成された段丘崖を要害として築かれています。規模は東西260m×南北250mほど、城縄張りは東端の最高所に構築された主郭から西側に二の郭ー三の郭を階段状に構築したシンプルな「一二三段」構造で構築され、二の郭・三の郭間に内堀が、三の郭の西側に外堀が設けられ防衛ラインとしています。規 |
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模は主郭が45−50m四方、二の郭が東西60m×南北120m、三の郭が東西100m×南北220mほど。二の郭・三の郭間の堀は幅20−25mほど、二の郭側に高さ5−6mの「野面積」の高石垣が見られます。同地は岩城、常陸から仙道郡山に繋がる街道に面した交通の要衝で、守山城は在地勢力の館城としての性格もありますが、本来 交通の要衝を抑える機能があったものと思われます。
築城時期・築城主体ともに不明。一説に坂上田村麻呂が蝦夷征討の際、この地に城砦を築いたことが初源とも。鎌倉期、「田村荘」を支配した田村荘司(藤姓田村氏)が居住し、また南北朝期 田村荘司は守山城を拠点に南朝方に加担したと伝えられます。『鎌倉大草紙』によると「小山義政の乱」(康暦2年)後、義政の遺児 小山若犬丸(隆政)は田村荘司則義を頼って「田村荘」に逃れましたが、応永3(1396)年 「鎌倉公方」 足利氏満率いる関東軍に敗れて討死にし、この際 田村荘司家は没落したとされます。その後、「田村荘」は平姓(三春)田村氏が支配下におき、永正年間(1504−20年)頃 田村隆顕が三春城に移るまで守山城を拠点にしたと伝えられます。(隆顕以前の田村氏の居城は史料上、不明ですが ・・・・・) 天正14(1586)年、田村清顕が死去し家督をめぐって田村家中で伊達派、相馬派が対立すると、同16(1588)年
これを発端とする「郡山合戦」が勃発し、相馬、佐竹、蘆名連合軍と伊達、田村連合軍が郡山で対峙しました。そして「郡山合戦」が伊達勢優勢で和議が成立すると、政宗は三春城に入城して相馬派の家臣を粛清し、清顕の甥 宗顕に田村家の家督を継がせ(「田村仕置」)、佐竹に対する抑えとして守山城に白石右衛門大輔宗実、片倉備中守景綱が据えられました。同18(1590)年、「奥州仕置」により伊達の会津領が蒲生氏郷に宛がわれると、守山城に氏郷の与力 田丸中務大輔具直が入城し、この際 守山城は改修されたものと思われます。慶長3(1598)年、上杉景勝が会津に入封すると守山城に須田大炊頭長義、本庄越前守繁長、竹俣左京亮利綱が順次 配され、ふたたび蒲生領となった元和元(1615)年 「一国一城令」により廃城。 |
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「田村荘」の国衆 田村氏の支城、上杉氏の支城 |
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丘城 |
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郭(平場)・土塁・土橋・堀・石垣 |
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場所はココです |
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二の郭に城山八幡宮の駐車場あり |
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平成21(2009)年11月19日 |
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守山城は黒石川左岸の段丘上に築かれた丘城で、現在 主郭に城山八幡宮が祀られ、二の郭・三の郭は守山小学校の校地になっています。でっ、西側の車道脇に外堀の痕跡が見られ(写真左上)、城山八幡方向に進むと三の郭(守山小学校)に辿り着きます。(写真右上) 三の郭の規模は東西100m×南北220mほど。でっ、二の郭・三の郭間は堀で画され二の郭側に石垣が構築されています。(写真左・左下) 堀の規模は幅20−25mほど、二の郭側の石垣は「野面積」の高さ5−6mの高石垣で、平成12(2000)年に発見されたものだそうです。(写真右下) |
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二の郭(写真左上) 規模は東西60m×南北120mほど、主郭とは4−5mの切岸で仕切られています。(写真右上) |
主郭(写真右) 規模45−50m四方ほどの方形郭、東縁に高さ1m弱の低土塁が築かれています。(写真左下) 内部に城山八幡が創建され、若干 改変されていると思われますが、二の郭と仕切った高さ3−4mの切岸は良好に残存しています。(写真右下) |
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