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淀城は山城盆地の南西部、桂川と宇治川(旧河道)、木津川(旧河道)合流地の中州に築かれた平城です。規模は東西450m×南北300mほど、城縄張りは宇治川に面した北縁に二ノ丸ー本丸を南北に配し、さらに東ー南ー西側をコ状に巻くように三の丸ー西ノ丸を配した梯 |

現地説明板の図 |
郭構造。さらに周囲を巻くように外郭群が敷設され、桂川、宇治川、木津川の流水を利用した濠で仕切れらていました。本丸の規模は90−100m四方ほど、周囲は石積土塁で囲郭され、南東隅に天守台が構築されています。大手は東大手郭から三の丸⇒二ノ丸⇒本丸に繋がるルートと推測され、導線は何度もクランクさせられています。同地は桂川、宇治川、木津川が合流する物品の集積地・商業地、また難波から京に繋がる街道を扼する要衝に位置します。
淀城は元和9(1623)年、徳川幕府の命により淀へ入部した松平越中守定綱により築かれたとされます。同所には もともと山城国守護職 畠山氏が修築したとされる淀古城、さらに豊臣時代に旧城を改修した淀古城がありましたが、文禄4(1595)年の「秀次粛清」後 廃城となりました。淀に入部した定綱は幕府の支援を受けて新城の築城を開始し、廃城になっていた伏見城の建物資材や二条城の天守を転用し、淀新城は寛永2(1625)年 ほぼ完成したとされます。寛永10(1633)年、定綱が美濃国大垣に転封になると淀へは下総国古河から永井信濃守尚政が入封し、尚政と嫡子の右近大夫尚征の代に淀城下の整備がなされました。その後、淀へは寛文9(1669)年 伊勢国亀山から石川主殿頭憲之が、宝永8(1711)年 美濃国加納から戸田河内守光熈が、享保2(1717)年 伊勢国亀山から大給左近衛将監乗邑が入封しました。そして享保8(1723)年、下総国佐倉から稲葉丹波守正知が入封以降、「明治維新」まで稲葉氏が在城しました。なお淀城は宝暦6(1756)年、落雷により天守や大部分の建物が焼失し、天守は再建されませんでした。また幕末期の慶応4(1868)年1月、「鳥羽伏見の戦」に敗れた旧幕府軍が淀城に籠ろうとしましたが、淀稲葉藩から入城を拒否されています。 |