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荒川城は荒川の下流域、左岸の丘陵頂部(標高93m 比高50m)に築かれた山城で、北ー西麓を流れる荒川と東側に切り込んだ沢を自然の濠とし、南西側の丘陵続きを堀で断ち切って城域を独立させています。規模は東西150m×南北150mほど、城縄張りは頂部を加工した主郭を中心に北側斜面を段郭群に加工したシンプルな構造になっています。規模は主郭が東西30m×南北10mほど、北側斜面は10数段の段郭群に加工されています。同地は淀川下流域から角館に抜ける街道が通っており、これを監視する機能が想定されます。
築城時期・築城主体ともに不明。天文年間(1532−55年)の城主は角館城主 戸沢氏から派遣された戸蒔城主 戸蒔氏とされ、荒川城は戸沢領の荒川口を警備、守備した「境目の城」と推測されます。天正15(1587)年の「唐松野の戦」時の城主は進藤筑後守と伝えら、戸沢勢の前線基地として機能したと思われます。同18(1590)年、豊臣秀吉が発令した「戸沢領内三十五ヶ城破却令」のひとつとして廃城。 |
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「戸沢三十五城」 戸沢氏の番城 |
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平山城 |
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郭(平場)・土塁・堀 |
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場所はココです |
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路上駐車(荒川城の北麓の橋脇に1台分の駐車スペースあり) |
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平成19(2007)年4月18日 |
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荒川城は荒川下流域の下荒川地区東方の丘陵上に築かれた山城で、北ー西麓に荒川が西流し、東側に沢が切り込んだ要害地形に位置します。(写真左上ー北側からの遠景
写真右上ー西側の沢 写真左ー山麓の絶壁) でっ、管理人は北端の尾根先端からアプローチし(写真左下)、北側斜面の段郭群を経て主郭を目指しました。(写真右下) |
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でっ、稜線上部は最大高3mの段差で画された10−11段の郭群に加工され、主郭に繋がっています。(写真左上・右上) 規模は幅5−6m前後ほど、小規模です。 |
主郭(写真右) 規模は東西30m×南北10mほど、南縁に高さ1−1.5mの土塁が築かれています。(写真左下) ま 〜〜〜 狭小な空間ですが、小屋掛できるスペースはあるようです。でっ、主郭背後(南側)に幅10m×深さ5−6mの堀が敷設されています。(写真右下) |
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