石 神 館
秋田県大仙市協和中淀川
立地・構造
 石神館は淀川の中流域左岸、西方向に張り出した舌状台地の先端(比高60m)に築かれた平山城です。館の規模は東西35−40m×南北50−60mほど。縁部を幅1.5−2m×高さ0.5mの土塁で囲まれた単郭の方形館と推測されます。館の東側の丘陵続きに堀等の施設は敷設されておらず平場になっていて、臨時に短期間に構築された陣城と推測されます。特徴的なのは東・南側に敷設された外桝形状の虎口で、東側の虎口は8−10m四方の完全な外桝形構造、南側の虎口は桝形にはなっていませんが塁線から外部に突き出す形で構築されています。秋田県内の城郭遺構で外桝形が確認できる城址は他になく(たぶん)稀レアな遺構です。

 築城時期・築城主体・館主ともに不明。同地から北に1.5kmには角館城主 戸沢氏の淀川流域の支配拠点 上総介館があります。南部氏の仙北撤退後の明応5(1496)年、角館城主 戸沢飛騨守秀盛は弟の上総介忠盛を湊安東氏との「境目」 上総介館に入れて湊安東氏の侵入に備えました。そして天文14(1545)年、忠盛が上総介館で死去すると湊安東友季は淀川流域に侵入して上総介館を攻略しました。しかし同16(1547)年、戸沢飛騨守道盛は上総介館を攻撃して安東軍を撤退させ上総介館を奪還しました。天正15(1587)年、安東愛季は仙北制圧を目論み戸沢領に侵入すると、上総介館を攻略して前線基地にします。そしてこの際、石神館上総介館攻略のための「付城」として取り立てられたものと思われ、築城主体は安東愛季の「侍大将」 嘉成播磨、鎌田河内と推測されます。
歴史・沿革
石神館 東側の外枡形虎口
メモ
天正15年の「唐松野の戦」時の安東氏の陣城?
形態
丘城(陣城?)
別名
・・・・・・・・ 
遺構
郭(平場)・土塁・桝形虎口
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成20(2008)年6月4日 平成21(2009)年1月9日
石神館は淀川中流域の左岸、西方向に張り出した舌状台地の先端に築かれた平山城で、北ー西ー南西方向に淀川流域を見下ろす高所に位置します。(写真左上ー西側からの遠景) でっ、城山へは南西麓から山道を進み、先端のピーク下から比高30mを直登します。(夏は背丈以上の竹笹で山道を進むことさえできませんでしたが ・・・・・) でっ、辿り着いた本郭の規模は東西35−40m×南北50−60mほど(写真右上)、四方の縁部に幅1.5−2m×高さ0.5mの低めの土塁が築かれています。(写真左ー東土塁)
石神館の特徴は東・南側に構えられた外桝形状の虎口でしょう。 (写真左上)東側の虎口、8−10m四方の完全な外桝形構造になっています。写真ではわかりずらいですが ・・・・・ (写真右上)南側の虎口、規模は4−5m四方ほど、桝形になっていませんが、塁線から外側に突き出して構えられています。
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