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雑田城は国仲平野の南西部、竹田地区にあった城址で、主郭部分は現在 妙宣寺の境内になっています。でっ、管理人は東郭北側の仁王門からアプローチしました。(写真左上) 東郭の規模は東西80m×南北60mほど、内部に佐渡唯一の五重塔が建てられています。(写真右) でっ、東郭・主郭間は最大幅10m×深さ3mの堀で遮断され土橋で繋がっています。(写真左下) 主郭へは土橋を渡って山門から入ります。(写真右下) |
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主郭(写真左上) 規模は東西120m×南北80mほど、現在 妙宣寺の境内になっていますが、周囲に土塁の痕跡が各所に見られ、往時 周囲は土塁で囲まれていたと思われます。(写真右上ー北東部の土塁
写真左ー北東部の土塁上の日野資朝の墓所 写真左下ー南西部の土塁 写真右下ー南東部の土塁上の番楽堂) 土塁の規模は下幅10m×高さ2−3mほど。虎口は東郭に繋がる東虎口のほか、北側中央と南東部に設けられていますが、北中央虎口は妙宣寺創建時(1589年以降)に切られたものなのでしょう。 |
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日野資朝は「正中の変」(1324年)に連座して佐渡に配流となった後醍醐天皇の側近。元弘2(正慶元)年 佐渡で斬首。 |
(写真左上) 主郭の南東虎口 |
(写真右上) 南側の腰郭、南側の沢に面し、現在は墓地に改変されています。 |
(写真右) 本堂、文久2年の再建。 |
(写真左下) 祖師堂、明治13年の再建。 |
(写真右下) 庫裏、文久2年の再建。 |
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(写真左上) 庭園 |
(写真右上) 主郭西側の堀祉、南側の集合墓地(腰郭)に繋がる車道になっています。西郭は行っていません。 |
(写真左) 隠れ松、元弘2(正慶元)年、父 日野資朝を殺害された阿新丸(後の日野邦光)が父の仇 本間山城入道(泰宣)を討つため隠れた松だそうです。がっ、たぶん当時 本間山城が拠していたのは壇風城(雑太元城)だと思うのですが ・・・・・・・・。 |
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