|
丸山城は阿武隈川右岸の独立丘陵(標高65m 比高40m)に築かれた丘城で、城の南⇒西⇒北麓に城を取り囲むように内川が流れ、自然の濠となっています。城の規模は東西400m×南北150mほど、城縄張りはシンプルな直線連郭構造で構築され、西から西郭ー主郭ー二の郭ー三の郭ー四の郭が敷設され、周囲は数段の腰郭、小郭群に加工されています。規模は主郭が東西15−20m×南北40m、二の郭が東西40m×南北30m、三の郭が東西30m×南北30mほど、各郭間は堀で分断されています。現在、東麓から四の郭に繋がる登山ルートがあるほか、北麓から主郭にダイレクトに登るルートがあるようですが、どちらが大手かは不明。丸山城は全体的に規模は小さくシンプルな構造になっていますが、阿武隈川流域の平野部を見下ろす高所に位置し、軍事・軍略的な性格があったものと思われます。
丸山城は天文17(1548)年、伊達左京太夫稙宗により築かれた伝えられます。天文11(1542)年、稙宗は三子 実元の越後守護職上杉家への入嗣問題で嫡子の晴宗と対立し、これが南奥の諸大名を巻き込む「天文 伊達の乱」に発展しました。当初、乱は稙宗方優位で推移しましたが、同16(1546)年 会津黒川城主 蘆名修理大夫盛氏が晴宗方に寝返ったため、稙宗方が不利となり、このため同17(1548)年 稙宗は晴宗に降伏し、和議の条件として家督を晴宗に譲り丸山城に隠居したとされます。稙宗死去後の元亀年間(1570−73年)、丸山城は相馬氏に攻略され、相馬氏の「境目の城」となります。しかし天正12(1584)年、伊達政宗の伊具郡侵攻により陥落し、同16(1588)年 相馬から伊達方に寝返った黒木実元が城将に配されました。同17(1589)年、新地城、駒ヶ嶺城が伊達勢に攻略されると、実元は駒ヶ嶺城に移され、丸山城に高野壱岐守兼高が配されました。そして慶長6(1601)年、大条薩摩守実頼が丸山城主として入城しましたが、同年 実頼は麓の鳥屋城に移り丸山城は破却されました。 |
|
|
|
伊達稙宗の隠居城 |
|
丘城 |
|
丸森城・丸山館 |
|
郭(平場)・虎口・土橋・堀 |
|
場所はココです |
|
水道施設(四の郭?)前に空地あり |
|
平成22(2010)年6月3日 |
 |
 |
 |
丸山城は丸森市街地東方の小高い丘陵上に築かれ丘城です。(写真左上) でっ、城へは東麓の新町地区から中腹部の水道施設まで車道が敷設されています。(写真右上)
水道施設がある場所が四の郭と想定され、ここから三の郭の虎口?を通り主郭を目指します。(写真左) でっ、虎口の前面に幅5−6m×深さ2mほどの堀が確認できます。(写真左下) |
三の郭(写真右下) 規模は東西30m×南北30mほど。 |
|
 |
 |
 |
 |
二の郭(写真左上) 規模は東西40m×南北30mほど、三の郭間は低い段差で繋がり、また主郭とは沢状に入り込んだ幅10m×深さ4−5mの堀で分断され(写真右上)、南端に設けられた土橋で繋がっています。(写真右) |
主郭(写真左下) 規模は東西15−20m×南北40mほど、内部は岩盤が剥き出しになっていて全面が平坦にはなっていないようです。現在、北端に愛宕神社が祀られ、また中央に伊達稙宗の墓碑が弔なわれています。(写真右下)
合掌。 |
|
 |
 |
 |
<稙宗の戒名> 「智松院殿直山円入大居士」 |
|