増 田 城
秋田県横手市(旧増田町)増田町土肥館
立地・構造
 増田城は横手盆地の南東部、皆瀬川右岸の微高地に築かれた単郭構造の平城です。城の規模は推定 東西300m×南北200mほど、周囲を濠と土塁で囲った典型的な方形館と思われます。規模は土塁が下幅6−7m×高さ1−1.5mほど(本来はもっと高かったのでしょう)、濠は現在 残存していませんが幅6mと伝えられます。(南側のみ幅10m) 虎口は北、東、南側の三方に設けられ、このうち東虎口が大手と推測されます。

 『増田満福寺文書』によると増田城は貞治年間(1362−68年)頃、南朝勢力に対する抑えとして室町幕府の命により信濃から この地に入部した小笠原義冬により築かれたと伝えられます。義冬は入部当初、三又城を拠点としましたが、その後 横手平野に進出して増田城を築いたと推測されます。15世紀初期、稲庭城を拠点
「古館」が見える増田村古絵図
現地説明板の図 (左側が北方向)
としていた小野寺中務大夫泰道は平鹿郡へ侵入して、同じく仙北郡へ侵攻した南部氏と対峙します。この際、小笠原氏は南部氏に加担したため小野寺氏の攻撃を受けて 永享年間(1429−41年)頃 小笠原光冬は仙北郡楢岡城への移住を余儀なくされました。小笠原氏退去後、増田城に小野寺氏の被官 土肥頼景が雄勝郡三又から入城し、増田城は小野寺氏の平鹿制圧の前線基地となりました。『奥羽永慶軍記』によると(あまり使用したくないのですが ・・・・・) 土肥氏は天正10(1582)年の大沢山の戦、同12(1584)年の「有屋峠の戦」に小野寺勢に加担して出陣しています。天正18(1590)年、増田城は太閤検地に反対する一揆勢に奪われましたが、その後 奥州仕置軍に鎮圧されています。文禄4(1594)年、山形城主 最上義光は楯岡城主楯岡豊前守満茂を指揮官として雄勝郡に侵攻し、湯沢城岩崎城を陥落させて雄勝郡の中央部を制圧することに成功しました。この際、土肥道近は最上勢に内応し、岩崎城奪還に動いた小野寺勢を背後から攻撃しています。その後、増田城に最上氏の被官 長瀞内膳進光が城代として入城し、慶長7(1602)年 佐竹義宣の秋田入封まで在城しました。そして佐竹氏時代、一族の佐竹義賢が城代として入城しましたが、元和8(1622)年 「一国一城令」により廃城。
歴史・沿革
増田城 東側の土塁
メモ
 平鹿の国人 小笠原氏の館城
形態
平城
 別名
土肥館 
遺構
郭(平場)・土塁・虎口
場所
場所はココです
駐車場
横手市役所増田支所の駐車場借用
訪城日
平成18(2006)年8月10日 平成24(2012)年6月25日
増田城は増田市街地の中央部、皆瀬川北岸の平野部に築かれた平城です。(写真左上) 城の規模は推定 東西300m×南北200mほど、周囲を濠と土塁で囲った方形館です。たぶん、秋田県に残る中世の単郭平城では最大規模でしょう。現在、残存しているパーツは東ー南東側の土塁で、規模は下幅6−7m×高さ1−1.5mほど、東土塁はかなり摩耗しています。(写真右上・左ー東土塁 写真左下ー南東端の土塁) 土塁の外側に幅6mの濠(南側のみ幅10m)が想定されますが、遺構は埋没し確認できず。(写真右下ー北側)
東虎口 (写真左上)
城址の北西隅に土塁痕が残り、土塁上に小笠原義冬が貞治2(1363)年、増田城築城の際 城の堅固と武運長久を祈って生き埋めにした愛娘の霊を慰霊するため二本杉が植えられました。(写真右上ー現在、1本のみ残存)
「貞治碑」(写真右) 大正12(1923)年、増田小学校新築の際 南土塁から出土した板碑で種子梵字は「アーン」(普賢菩薩)。貞治ニ年六月九日、景高なる人物が正寿禅尼なる女性の菩提の弔うために建立されたもので北朝暦が使用されています。
満福寺(写真左上ー山門 写真右上ー本堂) 『満福寺縁起』によると貞治年間(1362−68年)、増田に進出した小笠原義冬の開基と伝えられます。また貞治4(1365)年、義冬は増田城の堅固と武運長久を願い『大槃若経』六百巻を写経奉納したと伝えられます。小笠原氏退去後、増田城主となった土肥氏に篤く保護され、応永19(1412)年に中興されました。
秋田の中世を歩く