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増田城は増田市街地の中央部、皆瀬川北岸の平野部に築かれた平城です。(写真左上) 城の規模は推定 東西300m×南北200mほど、周囲を濠と土塁で囲った方形館です。たぶん、秋田県に残る中世の単郭平城では最大規模でしょう。現在、残存しているパーツは東ー南東側の土塁で、規模は下幅6−7m×高さ1−1.5mほど、東土塁はかなり摩耗しています。(写真右上・左ー東土塁
写真左下ー南東端の土塁) 土塁の外側に幅6mの濠(南側のみ幅10m)が想定されますが、遺構は埋没し確認できず。(写真右下ー北側) |
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東虎口 (写真左上) |
城址の北西隅に土塁痕が残り、土塁上に小笠原義冬が貞治2(1363)年、増田城築城の際 城の堅固と武運長久を祈って生き埋めにした愛娘の霊を慰霊するため二本杉が植えられました。(写真右上ー現在、1本のみ残存) |
「貞治碑」(写真右) 大正12(1923)年、増田小学校新築の際 南土塁から出土した板碑で種子梵字は「アーン」(普賢菩薩)。貞治ニ年六月九日、景高なる人物が正寿禅尼なる女性の菩提の弔うために建立されたもので北朝暦が使用されています。 |
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満福寺(写真左上ー山門 写真右上ー本堂) 『満福寺縁起』によると貞治年間(1362−68年)、増田に進出した小笠原義冬の開基と伝えられます。また貞治4(1365)年、義冬は増田城の堅固と武運長久を願い『大槃若経』六百巻を写経奉納したと伝えられます。小笠原氏退去後、増田城主となった土肥氏に篤く保護され、応永19(1412)年に中興されました。 |