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八木城は横手平野の南東部、皆瀬川右岸の河岸段丘先端(比高5m)に築かれた平城らしいです。城の規模・構造等は不明。西側の皆瀬川(氾濫原・湿地帯)を自然の濠とし、北ー東ー南側は濠?で城域を区画した単郭の館城(方形館か?)だったと推測されます。現在、城址は八木地区に包含され城郭遺構は残存しませんが、菅江真澄の『雪の出羽路』に「道家屋敷」「だんの前」「屋敷廻」「馬場頭」「元屋敷」等の地名が記載されています。 |
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八木城は永禄年間(1558−70年)、増田城主 土肥道近の庶子(弟?)八木親家により築かれたとされます。(『平姓八木氏系譜』) また『増田満福寺文書』では八木形部之丞盛平を、菅江真澄の『雪の出羽路』では小笠原義冬を貞治年間の城主として伝えています。親家の子 藤兵衛道家は惣領 土肥氏とともに小野寺氏に従属し、天正10(1582)年の「大沢山の戦」、同12(1584)年の「有屋峠の戦」に出陣しています。文禄4(1594)年、山形城主 最上義光は楯岡城主 楯岡豊前守満茂を総大将として雄勝郡に侵攻し、湯沢城、岩崎城を陥落させて雄勝郡を制圧することに成功しました。この際、土肥道近は最上軍に内応して岩崎城奪還に動いた小野寺軍を背後から攻撃していますが、八木道家は惣領 土肥氏から離脱して小野寺軍に参陣しています。慶長5(1600)年の「関ヶ原」時、小野寺氏は上杉氏と結んで最上氏を攻撃したため、同6(1601)年 所領没収、改易となり、同7(1602)年 佐竹義宣が秋田に入封すると道家は佐竹氏に仕官し角間川給人になったと伝えられます。 |
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増田土肥氏の庶子家 八木氏の居館 |
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平城 |
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場所はコノヘンらしいです |
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路上駐車 |
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平成20(2008)年5月16日 |
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八木城は皆瀬川北岸の微高地に築かれた平城らしいです。(写真左上) でっ、現在 城址は八木地区に包括され城郭遺構は残っておらず、場所・規模・構造等は不明。たぶん
・・・・・、皆瀬川側に残る段丘崖沿いに築かれていたと思われます。(写真右上・左) でっ、段丘上は耕作地になっていますが(写真左下)、その一画に八木神社が祀られており、個人的にはこのあたりが八木城だったと思うのですが ・・・・・。(写真右下) |
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