虚 空 蔵 山 城
長野県松本市(旧四賀村)中川・小岩井
立地・構造
 虚空蔵山城は安曇野から善光寺平、小県に繋がる会田盆地北縁の虚空蔵山(標高1139m 比高480m)に築かれた山城で、頂部の東西に延びた稜線と南側に延びた支尾根に小郭・段郭群を敷設して全山要塞化した巨大な要害です。主郭は稜線のピークに築かれた小郭で規模は東西20m×南北10mほど。西側下には3−4mの段差で二の郭が配置されています。二の郭の規模は東西10−15m×南北7−8mほど、北側縁部には主郭から繋がる尾根を削り残した土塁が築かれ、西側は5−6m切り落とした堀切で処理されています。主郭から東側稜線は3条の堀切で遮断され、堀切間は小郭で処理されています。(削平は相当 甘く自然地形で利用されたと思われますが ・・・・・・・・) また二の郭から西側尾根には郭らしき平場も見られますが、ほとんど自然地形の尾根の様相を呈し、また堀切等の防御施設も見られません。虚空蔵山から南側に延びた七つの支尾根には中の陣、秋吉城、うつつ城等の郭群が構築されています。このうち中の陣は南西側に延びた支尾根先端に構築された郭で、規模は東西15−20m×南北30−40mほど。北側は高さ2−3mの土塁が築かれ背後は幅20mの堀で尾根稜線と分断されています。また南側の切岸部分には石積が見られ、往時は郭全体を石積で補強されていたと推測されます。これらの郭群は南から南西側斜面にかけて集中的に構築されていますが、これは南西麓に想定される居館からの大手ルートを防御するためと考えられます。

 築城時期・築城主体ともに不明。城主は『会田系図』によると鎌倉初期頃、小県から会田、明科に進出した滋野・海野一族の海野次郎幸持を祖とする会田氏とされ、幸持の次弟 幸氏が塔原に、三弟 幸元が田沢に、四弟 幸棟が借屋原に、五弟 幸国がに入部して海野一族が会田、明科を支配したとされます。会田氏の史料上の初見は嘉暦4(1229)年の諏訪上社の『頭役結番下知状』会田御厨の地頭職として海野(会田)信濃守入道の名が見られ、この頃には会田に入部していたと推測されます。また『大塔物語』には応永7(1400)年の「大塔合戦」「大文字一揆」(国人衆)方として「海野宮内少輔幸義、舎弟中村弥平四郎、会田岩下、大草、飛賀野、田沢、塔原 ・・・・・・・・・・・・」が出陣したことが記されており、この頃 会田氏は一族の岩下氏(幸義の弟の家系か?)にとって替わられたものと思われます。このため室町中期の『諏訪御符礼之古書』には「会田五ヶ郷」の頭役として岩下三河守、岩下満幸、岩下増寿丸の名が見られます。天文19(1550)年、信濃国守護職 小笠原大膳大夫長時を追放して府中平を制圧した武田晴信は、さらに安曇・筑摩に勢力を扶植させましたが、会田、塔ノ原、田沢、刈屋原、光、平瀬、古厩氏等の在地国衆は武田に臣従せず、このため晴信は「天文二十二年四月二日午ノ刻刈屋原城攻略、酉ノ刻塔原自落、三日会田虚空蔵山城放火 ・・・・・・・・・・・」『高白斎記』)し、会田氏は武田に降伏してその支配下に組み込まれました。同年9月、越後の長尾景虎は北信の国人衆の救援依頼を受けて善光寺平に出陣します。そして長尾勢は軍をすすめ、荒砥城青柳城を攻略し、この際 虚空蔵山城も攻め落とされたと伝えられます。その後、虚空蔵山城は武田勢に奪還され、永禄10(1567)年 生島足島神社で提出された武田信玄への起請文には海野氏の惣領 幸貞(塔ノ原城主)とともに岩下幸実、幸広、長高の名が記されています。天正10(1582)年、武田氏が滅亡、織田信長が「本能寺」で横死して織田勢力が信濃から撤退すると、会田氏は北信濃に侵攻した上杉景勝の支配下に入ります。しかし同年、会田氏は徳川家康の支援を受けて府中を回復した小笠原右近大夫貞慶の攻撃を受けて滅亡しました。
歴史・沿革
虚空蔵山城 中の陣の石積
メモ
滋野・海野一族 会田岩下氏の要害
形態
山城
別名
会田城 
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・石積・堀
場所
場所はココです
駐車場
登り口に駐車可能な路側帯あり
訪城日
平成21(2009)年4月19日
平成24(2012)年4月28日
虚空蔵山城は会田盆地を望む虚空蔵山に築かれた山城で、東側稜線下には風越峠が、西側下には立峠があり、安曇野から善光寺平に繋がる街道筋を扼する要衝に位置します。(写真左上) でっ、山頂へは中腹の林道沿いから登山ルートがいくつか敷設されていますが、どのルートを利用しても比高200−250mの急斜面を登ることとなります。管理人は南西側の中の陣からのルートを利用し(写真右上)、まずは中の陣を目指しました。(写真左) でっ、辿り着いたのが中の陣北側の尾根で、基本的には堀と想定される痩尾根です。(写真左下) でっ、正面には中の陣背後の土塁が見えます。(写真右下)
ー 中  の  陣 ー
虚空蔵山から南西側に延びた支尾根先端に築かれた単郭の郭で、麓との比高は300mほどあります。規模は東西15−20m×南北30−40mほど(写真左上・右上)、北側には高さ2−3mの土塁が築かれ北側の尾根稜線を断ち切っています。(写真右) 往時、周囲の切岸・土塁には石積が施されていたようですが、現在 確認できるのは南側の切岸部分のみ。(写真左下・右下) 『高白斎記』に記された「三日会田虚空蔵山城放火」はこの中の陣に想定され、基本的には「有事の際」上屋敷だったのでしょう。   (場所はココです)
ー 虚 空 蔵 山 城 へ ー
「中の陣」から山頂(主郭)へは、そのまま尾根を直登しました。(写真左上ー登り口) ま 〜〜〜、一度、林道に戻り 岩谷神社を経由して登るコースも選択肢としてあったのですが ・・・・・・・・・・。ただし ・・・・・・・・、登山道はなく急斜面を喘ぎ喘ぎ攀じ登ることを余儀なくされました。途中には郭らしき平場もあるのですが、小規模なものです。(写真右上) 最後は崩落したガレ場をヒヤヒヤしながら登り(写真左)、主尾根を目指しました。(写真左下) でっ、辿り着くのが西側の主尾根で、ここで西麓の岩井堂からの登山道と合流します。(写真右下) 案内杭には山頂まで0.3kmとあります。近っ!!。
ー 虚 空 蔵 山 城 ー
西側稜線の先端部分は痩せた岩場になっていますが、自然地形をそのまま利用した防御ラインと捉えることもできるようです。(写真左上) でっ、この辺から実質的な城域になるようで、主郭方向に進むと小規模な堀切が見られます。(写真右上) でっ、またしばらく尾根を東進すると、岩谷神社経由の登山道と合流し、主郭への稜線は急斜面となり(写真左)、二の郭の手前には浅い堀状の虎口郭が設けられています。(写真左下)
二の郭(写真右下)
規模は東西10−15m×南北7−8mほど、北側には主郭から繋がる尾根を削り残した土塁が構えられています。土塁は風除けだったのでしょう。
主郭(写真左上)
規模は東西20m×南北10mほど、現在は郭の中央に「城址標柱」が建てられています。隣接した二の郭と合わせても規模は小さく、小屋掛するスペースしかないようです。西側は坂虎口で二の郭に繋がり(写真右上)、東側稜線は幅7−8m×深さ5−6mの堀切で遮断されています。(写真右・左下) 
 
(写真右下) 主郭から会田盆地を望む
会田盆地の南縁は保福寺峠を越えて小県に繋がる交通の要衝地で、ここには海野一族の刈谷原城、荒神尾城等が構えられていました。
東郭(写真右上)
規模は幅4−5m×長さ20mほど、削平はまったく施されておらず全体が岩場になっています。でっ、東側は幅10m×深さ7−8mの大堀切で稜線を断ち切り(写真左)、さらに大堀切の東側には幅4−5m×長さ15mの平場(?)があり(写真左下)、東側稜線は幅3m×深さ1mの浅い堀で切られています。(写真右下) この先にも城郭遺構があるのでしょうが、管理人はここで退却しました。
管理人は岩谷神社経由で下山しました。南側の急斜面の中腹の岩場には岩谷神社が祀られ(写真左上)、中腹以下には夥しい数の帯郭群が確認できます。(写真右上・右)
広田寺(写真左下)
虚空蔵山の南西麓にある会田氏の菩提寺。永正8(1511)年、岩下(会田)豊後守創建と伝えられます。周辺は殿村と呼ばれ、会田氏の「根小屋」が構えられていたようです。実は会田氏没落後、戦死者を合祀した会田塚を探しに来たのですが ・・・・・・・・、結局 会田塚は見つけられず。でも広田寺本堂の屋根に「真田の六連銭」を発見!!!。(写真右下) 通説では「六連銭」は真田幸隆の頃、真田氏の家紋にしたとされますが、もともと海野一族は「六連銭」を家紋としていたのでしょう。
秋田の中世を歩く