三 春 城
福島県田村郡三春町大町.南町.北町.山中.亀井.清水
立地・構造
 三春城は阿武隈丘陵中央部の中山間地、八島川左岸の独立丘陵上(標高407m 比高90m)に築かれた山城です。規模は東西500m×南北600mほど、城縄張りは頂部に構築された中枢(本丸・二の丸)を中心に西ー北西ー南東側稜線に展開された連郭構造で構築され、中枢部の周辺は帯郭、腰郭群で固められています。規模は本丸が東西50m×南北80m、二の丸が東西80m×南北40mほど、両郭は高さ3−4mの段差で
区画されています。南北に細長い本丸内部は北側が「奥殿」、南側が「大広間」と呼ばれ、南西部に設けられた桝形虎口で二の丸と繋がっています。二の丸の南側中央に「大門」が構えられていました。西郭群の規模は東西100m×南北30−40mほど、内部は2−3mの段差で3−4段の段郭群に加工されています。東郭(東館)の規模は東西50m×南北100mほど。大手導線は南麓からのルートが想定され、近世 中腹の「二の門」「揚土門」「三の門」を経て二の丸「大門」に繋がるルートが大手筋と推測されます。

 築城時期・築城主体ともに不明。城主は南北朝以降、衰退した田村庄司家に代わって勢力を拡大した平姓田村氏とされ、永正年間(1504−20年)頃 田村義顕が拠点を守山城から三春城に移したと伝えられます。(三春城への移住は義顕の嫡子 隆顕の代とする説もあります) 田村氏の出自は不明、田村庄司家に繋がる一族と推測され、15世紀初期頃から台頭し、15世紀末期 「田村荘」内最大の武家勢力に成長していたと思われます。天文年間(1532−55年)初期、家督を継いだ隆顕は周辺を伊達、相馬、岩城、蘆名に囲まれ苦しい立場にありましたが、伊達稙宗の娘を娶って伊達を後楯として所領の保持を図り、天文11(1542)年に勃発した「天文伊達の乱」では稙宗方に加担しています。乱後の天文19(1550)年、隆顕は「安積郡」への進出を図るものの蘆名勢に敗れて郡山を失い、また永禄2(1559)年にも蘆名勢に敗北を喫しています。しかし同3(1560)年、常陸の佐竹氏が南郷に進出して白川結城氏、石川氏を佐竹の支配下に組み込むと、隆顕は蘆名氏と結んで佐竹氏に対処する策を採りました。そして蘆名氏と組んだ田村氏は元亀2(1571)年、天正2(1574)年の2度にわたって佐竹勢を撃破しましたが、同年 「安積郡」の所領問題からふたたび蘆名氏と対立します。さらに同年、蘆名修理大夫盛氏と佐竹常陸介義重の和議が成立すると、田村氏は蘆名、佐竹、二階堂、石川、白川結城、岩城氏と対峙することとなります。しかし清顕は同3(1575)年、劣勢の中 果敢に「安積郡」に侵入して郡山を制圧、同5(1577)年 蘆名、二階堂連合軍を撃破しています。そして同7(1579)年、清顕は息女を伊達輝宗の嫡子 政宗のもとに輿入れさせ、伊達との同盟関係を堅固なものとしました。同11(1583)年、小浜城主 大内備前守定綱が田村氏の支配下から離脱すると、清顕は数度にわたって大内討伐の兵を挙げましたが いずれも失敗に終わり、同13(1585)年 伊達政宗の大内攻めに参陣してこれを制圧しました。しかし大内領は伊達氏に併呑され、東安達から田村氏の影響力は薄らいでいきました。同14(1586)年、清顕が死去すると田村氏の家督を巡って、田村家中は伊達派と相馬派に分裂します。そして同16(1588)年5月、相馬長門守義胤が三春城への入城を図りましたが伊達派に阻止され、同年7月の「郡山合戦」を辛くも切り抜けた伊達政宗が三春城に入城して、清顕の甥 宗顕を田村家の跡目としました。(「田村仕置」) これにより田村氏は独立性を失い、実質的な伊達の被官となりました。同18(1590)年、田村氏が「奥州仕置」により改易になると、宗顕は米沢に移り 三春城は会津に入封した蒲生氏郷、次いで上杉景勝、そして蒲生飛騨守秀行の属城となり、寛永4(1627)年 加藤左馬助嘉明が会津に入封すると、三春城に嘉明の次男 民部大輔明利が配されています。その後 正保2(1645)年、秋田河内守俊季が常陸国宍戸から入封し、「明治維新」まで秋田氏が在城しました。なお慶応4(1868)年の「戊辰戦争」の際、三春秋田藩は当初 「奥羽列藩同盟」に加担しましたが、その後 新政府軍に帰順して所領を安堵されています。明治6(1873)年、「存城廃城令」により破却。
歴史・沿革
三春城 本丸西側の「野面積」
メモ
中世 ー 南奥州の有力国衆 田村氏の館城
近世 ー 三春秋田藩の藩庁
形態
山城
別名
舞鶴城
遺構
郭(平場)・虎口・桝形?・門礎石?・石垣・堀
場所
場所はココです
駐車場
三春町役場の駐車場借用 OR 中腹にも駐車スペースあり
訪城日
平成19(2007)年12月21日 平成21(2009)年4月24日
三春城 遠景
三春城は三春市街地東方の丘陵上に築かれた山城です。(写真左上ー南西側からの遠景) でっ、城山へはいくつか登山ルートが設けられ、中腹まで車で登ることも可能ですが、管理人は南麓の「お城坂」から歩いて登りました。(写真右上) でっ、山麓に近い部分に削平地が見られ、現在 民家敷地になっています。(写真左ー近世の三の丸) でっ、坂道を登り詰めると南側斜面に敷設された竪堀が見られます。(写真左下) ま 〜〜〜 中世三春城の名残なのでしょう。さらに道を進むと「二の門跡」の標柱があります。(写真右下)
三春城 堀切
管理人は前述した「二の門跡」を直進し、現れるのが本城西郭群を断ち切った堀切です。(写真左上) 規模は幅10m以上、堀底は車道敷設で相当 削り込まれているようです。
西郭群(写真右上・右) 規模は東西100m×南北30−40mほど、内部は2−3mの段で3−4段に加工されています。
でっ、管理人は北西側下の腰郭から二の丸「裏門」を目指しました。(写真左下) 導線は比高差20mの谷を2度クランクさせて敷設されています。(写真右下) たぶんこのルートが中世三春城の大手導線なのでしょう。
三春城 石垣祉
三春城 大門祉
(写真左上) 本丸西側側面の石垣
二の丸(写真右上) 規模は東西80m×南北40mほど、近世 西端に御三階櫓が構えられ、南側中央に「大門」(表門)が設けられていました。(写真左ー石は「大門」の礎石か?) 周囲に土塁は見られず、木柵列あるいは土塀が築かれていたのでしょう。本丸とは3−4mほどの段で仕切られ、虎口受けの小郭を経て繋がっています。(写真左下) でっ、虎口部分は小規模な桝形構造になっています。(写真右下)
本丸(写真左上ー「大広間」) 規模は東西50m×南北80mほど、内部は北側が「奥殿」、南側が「大広間」と呼ばれていたようです。(写真右上ー「奥殿」) 田村氏時代、ここに日常居館が構えられていたのでしょう。
管理人は二の丸「大門」から下山しましたが、南側斜面に帯郭群が敷設され、これを縫うように導線が設けられ、導線がクランクする部分に「三の門」「揚土門」が構えられていました。(写真右ー「三の門」跡 写真左下ー「揚土門」跡) なおこのルートが三春秋田藩時代の大手筋だったようです。
(写真右下) 本城・東郭間の堀切
三春城 明徳門
東郭(写真左上) 規模は東西50m×南北100mほど、南側と東側は段郭群で処理されています。(写真右上) でっ、近世城郭の趣は感じられず、藩政期 三春秋田藩はこの部分の改修は施さず、中世のまま使用したのでしょう。なお中世三春城城山主郭を中心に西郭・東郭からなる壮大な連郭式山城だったようです。
明徳門(写真左) 三春秋田藩の藩校 明徳堂の表門。現在、三春小学校の校門として利用されています。なお藩政期、三春小学校の敷地に秋田氏の御殿・殿舎が設けられていました。
秋田の中世を歩く