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原城は有明海に面した丘陵上に築かれた丘城です。(写真左上ー南西側からの遠景) でっ、管理人は北西側からアプローチしましたが(写真右上)、城域の西縁に幕府方が築いた竹束、柵からなる仕寄場があったようです。(写真左)
さらに進むと板倉重昌の碑が建てられています。(写真左下) 板倉重昌は「島原の乱」の際 派遣された幕府上使でしたが、寛永15(1638)年2月 一揆方の銃弾を受け討死にしました。でっ、三の丸の規模は250m四方ほど、段によりいくつかの郭に加工されています。(写真右下) |
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三の丸の中央東側の谷地に桝形構造の大手門が構えられ、大手口からの導線は二の丸を経て本丸に繋がっていました。(写真左上ー大手門祉) 二の丸の規模は東西420m×南北380mほど、内部は東西から谷地が入り込み三の丸同様 不成形に加工されています。(写真右上ー二の丸北西出丸 写真右ー中央西側の谷地 写真左下ー二の丸東部) でっ、本丸・二の丸間は蓮沼と呼ばれる谷戸で遮断されています。(写真右下ー蓮沼) |
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本丸・二の丸間は片堀にかけられた土橋で繋がっていました。(写真左上) 堀の規模は幅10mほど。でっ、本丸の北側下に小空間が設けられ(写真右上)、ここから導線は正門を経て左折し(写真左)、さらに本丸の北西縁を廻り、埋門から本丸に繋がっています。(写真左下ー埋門祉) なお導線は外側を土塁で囲った巨大な桝形構造だったようです。また正門脇の土塁上に「島原の乱」の戦死者を供養する「ホネカミ地蔵」が建立されています。 |
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その後、大手導線は外桝形構造の本丸門から本丸に入ります。(写真左上) 本丸の規模は東西150m×南北80mほど(写真右上)、周囲は総石垣で構築され、「打ち込みハギ」が採用されていました。(写真右ー櫓台の石垣) また内部に「島原の乱」後、破却された石塁の状態が展示され(写真左下)、天草四郎時貞の碑、像が建てられています。(写真右下ー天草四郎時貞の碑)
なお虎口は本丸門のほか北東端に池尻口門が設けられています。 |
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(写真左上) 天草四郎時貞像 |
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(写真右上) 池尻口門 |
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(写真左) 田町口御門祉、城の南西端、鳩山出丸・南天草丸間に設けられた門祉。(場所はココです) |
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