小 高 城
福島県南相馬市小高区小高
立地・構造
 小高城は小高川下流域の左岸、北から南方向に張り出した丘陵上(比高20m)に築かれた丘城で、北側の丘陵続きを堀で分断して城域を独立させています。往時、周囲は小高川の氾濫原に囲まれた自然の要害だったと思われます。城の規模は東西180m×南北130mほど、内部は主郭・北二の郭・馬場・南二の郭の四郭構造に
小高城 概念図
なっています。主郭の規模は東西120m×南北80mほど、周囲に部分的に土塁が残存していることから、往時 全体を土塁で囲っていたと推測されます。北二の郭主郭の北東側に張り出した小郭で北方向に対する防衛拠点と推測されます。馬場北二の郭・南二の郭間の谷地に敷設された平場で、東側下の弁天池ー濠祉間の土橋から馬場を経て主郭に繋がるルートが往時の大手導線と推測されます。城の規模は比較的小さく、また要害地形を利用して築かれているとはいえ要害性は薄く、前面に沖積平野が広がっていることから、もともと軍事優先より開発拠点として築かれた在地領主の恒常的な日常居館と思われます。

 築城時期・築城主体ともに不明。通説では鎌倉末期、下総国から陸奥国行方郡に下向した相馬孫五郎重胤により築かれたと伝えられます。南北朝期、重胤は嫡子の出羽権守親胤とともに北朝方に加担して、南朝方の伊達、標葉氏と対峙しましたが、建武3(1336)年 鎌倉で討死し、また同年 重胤の次男 光胤が守備した小高城も南朝勢の攻撃を受けて陥落、相馬氏は存亡の危機に陥ります。しかし観応3(正平7)(1352)年、北畠顕信の籠る宇津峰城が陥落し南朝勢力が衰退すると、北朝方に加担していた親胤の嫡子 胤頼は失地を回復します。「南北朝合一」後、鎌倉府は奥羽の国人掌握のため篠川御所稲村御所を設置しましたが、応永17(1410)年 相馬氏は岩城、漂葉、楢葉氏等と「五郡一揆」を結んで篠川御所稲村御所に対抗しました。そして永享10(1438)年に勃発した「永享の乱」鎌倉府が衰退すると一揆の必要性が薄れ、相馬氏は勢力を維持、拡大するため漂葉氏等の在地勢力と抗争するようになります。文安2(1445)年、相馬治部少輔高胤は牛越城主 牛越貞綱、飯崎館主 飯崎紀伊を制圧、文明2(1470)年 漂葉領へ侵入して徐々に領域を拡大しました。明応元(1492)年、権現堂城攻略中に高胤は病死しましたが、あとを継いだ大膳大夫盛胤は漂葉氏の一族 泉田壱岐守隆直を内応させて漂葉氏を滅ぼし、漂葉郡を勢力下に組み込みました。天文11(1542)年、「天文伊達の乱」が勃発すると相馬讃岐守顕胤は田村、二階堂、蘆名氏等とともに伊達稙宗、晴宗父子の和睦を図るものの和議は成立せず、このため両派の抗争は南奥の国人衆を巻き込んで長期化しました。この間、顕胤の出陣中に黒木城主 黒木弾正は北郷の田中城攻略に動きましたが、相馬勢に撃退され宇多郡の実権は顕胤に掌握されました。天文21(1552)年、伊達晴宗が懸田城主 懸田俊宗、義宗父子を滅ぼして伊具、宇多郡への勢力拡大を図ると、相馬弾正大弼盛胤は宇多郡北部の守備を固めるため、駒ヶ嶺城新地城等を築いて伊達勢への備えとしました。永禄7(1564)年、盛胤は名取郡で伊達に勝利すると伊具郡に侵攻し、同9(1566)年 伊具郡の金津城、小佐井城、金山城を、元亀元(1570)年 丸森城を攻略して伊具郡を制圧しました。天正4(1576)年、伊具郡の回復を図る伊達晴宗、輝宗父子は相馬領に侵攻しましたが、田村、蘆名氏の仲介で盛胤と一時的に和議を結びます。同6(1578)年、盛胤が隠居して嫡子の長門守義胤が家督を継ぐと、盛胤は小高城を出て三男の郷胤が城代をつとめる田中城に同居し、また伊達への備えとして中村館(後の中村城)を守備する次男の兵部大輔隆胤を後見しました。同9(1581)年、伊具郡小斎城を守備していた鬼越館主 佐藤宮内が伊達方に寝返ると、伊達輝宗、政宗父子は伊具郡に出陣して同11(1583)年 金山城を、同12(1584)年 丸森城を奪還して伊具郡を回復、さらに宇多郡北部に侵攻して相馬勢と激しく対峙しました。しかし同年、田村清顕、岩城常隆の仲介で相馬・伊達は和議を結び、同13(1585)年の伊達政宗の二本松討伐」に義胤は相馬勢を伊達軍に参陣させています。同14(1586)年、田村清顕が死去して田村家の家督を巡って田村家中が相馬派・伊達派に分裂、対立すると、相馬・伊達氏はふたたび対立します。同16(1588)年、義胤は「郡山合戦」の際 蘆名氏の後詰として出陣し 田村家中を抑えるため三春城に入りましたが、伊達派の田村月斎に銃撃されて小高城への帰陣を余儀なくされました。同17(1589)年、義胤は伊達派に寝返った大越紀伊討伐のため田村郡大越に出陣しましたが、この隙をついて伊達勢は宇多郡に侵入すると駒ヶ嶺城新地城を攻略して宇多郡北部を制圧します。このため義胤は失地回復のため駒ヶ嶺城新地城を攻撃しましたが、伊達勢に撃退され 徐々に伊達氏の圧迫を受けて相馬氏は存亡の危機となります。しかし同18(1590)年、義胤は豊臣秀吉の「小田原の陣」に参陣して豊臣政権下に組み込まれると、「奥州仕置」で宇多、行方、標葉三郡の所領を安堵され 存亡の危機を脱しました。慶長2(1597)年、義胤は牛越城に支配拠点を移しましたが、同5(1600)年の「関ヶ原」での行動が不審だったため戦後、相馬氏は改易となります。しかし同7(1602)年、義胤の嫡子 大膳亮利胤の代に相馬氏は家名を復活することとなり、ふたたび小高城を拠点とし、同16(1611)年 中村城に移るまで小高城に相馬藩の藩庁が置かれました。
歴史・沿革
小高城 小高神社参道前の城址碑
メモ
相馬氏の本城
形態
丘城
別名
紅梅山浮舟城
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・堀(濠)・水の手
場所
場所はココです
駐車場
小高神社の駐車場借用
訪城日
平成21(2009)年4月30日
小高城は小高川の河口部、北岸の小丘陵に築かれた丘城で、北側の丘陵続きを堀り切り、東ー南ー西側は小高川の氾濫原を自然の濠としていました。(写真左上) でっ、往時 氾濫原に浮かぶ舟に例えて「浮舟城」と呼ばれていました。現在、小高川は堤防で固定され、また周囲は開墾等で改変されていますが、北側の丘陵基部を断ち切った堀や東側の濠祉が明瞭に残存し、また弁天池と呼ばれる沼沢も残存しています。(写真右上ー北西側の濠祉 写真左ー北側の堀切 写真左下ー東側の濠祉 写真右下ー弁天池)
でっ、城へは南側中央の小高神社参道と東側から車道でアプローチすることができます。(写真左上) でっ、東側からのルートが本来の大手筋に想定され、弁天池と濠間にかけられた土橋から馬場の側面を通り(写真右上)、主郭に繋がっています。(写真右) 主郭の虎口部分は若干 改変を受けていますが、土塁の痕跡が確認できます。また南側から小高神社参道が設けられていますが、これは後世 小高神社創建時に敷設されたもの(写真左下)、参道を登り切ると南二の郭に辿り着きます。(写真右下)
主郭(写真左上) 規模は東西120m×南北80mほど、相当 広いまとまった平場で現在は小高神社の社地境内、公園として整備されています。(写真右上) 城郭遺構としては神社の裏側に高さ2m前後の土塁(写真左)や水の手と思われる「御神水」(写真左下)があり、また北側中央に搦手虎口と思われる北虎口が設けられています。(写真右下)
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