佐 賀 館
長崎県対馬市(旧峰町)峰町佐賀
立地・構造
 佐賀館は日本海に面した上対馬の中央東端、佐賀地区西端の山裾の微高地に築かれた平城らしいです。館の規模・構造等は不明ですが、単郭の方形館と推測され、前面に佐賀川が東流し、背後に丘陵が迫る狭隘地形に築かれたものと思われます。なお『海東諸国紀』には「沙加浦五百余戸」と記されており佐賀浦はケッコウ大きな集落だったようです。

 築城時期は不明。通説では応永15(1408)年、宗家七代当主 刑部少輔貞茂により築かれたとされます。宗家は四代当主の盛国の後、盛国の嫡子 刑部丞経茂が筑前国守護代として太宰府で執務にあたり、次男の頼次(宗香)が仁位中村に館を構えて島内経営にあたっていました。しかし頼次の嫡子 澄茂の代に仁位宗氏は九州探題 今川了俊に近侍して対馬国守護代の地位を得、太宰府の宗嫡流家と対峙しました。(応安年間 1368ー1375年頃か?) その後、今川了俊が失脚すると応永5(1398)年、澄茂の子 右馬大夫頼茂は武力蜂起します。このため貞茂は対馬に戻ってこれを鎮圧し、また同8(1401)年 仁位宗氏の澄茂・賀茂兄弟が叛乱を起こすと これも鎮圧して「対馬島主」の地位を奪還しました。そして貞茂は応永15(1408)年、筑前国守護代職を弟の貞澄に譲り、自身は対馬に帰島して統治拠点として佐賀館を築いたものと思われます。応永25(1418)年、貞茂逝去により宗家の家督は貞茂の嫡子 刑部少輔貞盛に継承されます。そして貞盛は翌26(1419)年、李氏朝鮮による対馬侵攻(「応永の外冦」)を撃退し、戦後 李氏朝鮮との関係修復に努め、嘉吉3(1443)年には「嘉吉条約」を締結して、李氏朝鮮との交易による利益を独占しました。このため貞盛は朝鮮との交易を目論む長門国守護職 大内左京太夫教弘と対立し、たびたび九州に派兵しています。享徳元(1452)年、貞盛逝去により宗家の家督は貞盛の嫡子 成職(しげもと)が継承しましたが、応仁元(1467)年 成職は病死し、宗家の家督は貞盛の弟 盛国(豊崎郡主家か?)の次子 刑部少輔貞国に継承されました。そして応仁2(1468)年、貞国は統治拠点を府中に移し、この際 佐賀館は破却されたものと思われます。
歴史・沿革
佐賀館 圓通寺の宗家墓所
メモ
宗氏中期の館城
形態
平城
別名
佐賀屋形
遺構
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場所
場所はココです
駐車場
圓通寺の駐車場借用
訪城日
令和元(2019)年10月22日
佐賀浦
佐賀館は佐賀浦に面した佐賀地区西端の微高地に築かれた平城らしいです。がっ、場所は明確ではないようで、『日本城郭大系』によると圓通寺の西側にあったようです。(写真左上ー南東側からの遠景 写真右上ー推定地)
圓通寺(写真右・左下)
創建時期は不明、宗貞茂あるいは貞盛の菩提寺として創建か?(貞盛の法号は「圓通寺」)。御本尊は高麗末期の渡来仏「銅像薬師如来坐像」、境内には李氏朝鮮初期の通信使 李藝の顕彰碑が建てられています。(写真右下)
圓通寺
朝鮮鐘 宗家墓所
朝鮮鐘(写真左)
志那鐘の影響を受けて李氏朝鮮初期、朝鮮で鋳造された梵鐘。(長崎県指定有形文化財)
宗家墓所(写真右上)
本堂の背後にある墓石群。個々の墓石に関する所伝はなく、また無記銘のため 誰のものなのかは不明。