岩 谷 城
福島県大沼郡三島町滝谷字下館山
立地・構造
 岩谷城は只見川の支流 滝谷川右岸の独立丘陵上(標高330m 比高100m)に築かれた山城で、滝谷川を自然の濠とした急峻な断崖上に築かれた小規模な城砦です。麓の滝谷集落は黒川(会津若松)から伊北郷横田を結ぶ旧伊北街道の要衝地で周囲を丘陵に囲まれた滝谷川の狭隘地形に位置し、岩谷城には周囲の
上ノ山小館山殿平とともに滝谷集落を監視・防御する機能があったものと思われます。岩谷城から南東方向に延びた尾根鞍部の旧伊北街道が横切る箇所には尾根を土塁状に削崖し、切通し状に開口した木戸口が設けられ、ここに街道の監視施設をともなった二の郭が構えられていました。岩谷城主郭へは二の郭からの導線が想定されますが、特に明確な登山道はなく 約40mの急斜面を直登になります。登りきると岩盤を削り取ったと思われる木戸口?があり、木戸口を過ぎると主郭に繋がる帯郭から主郭に入るように導線は設定されています。主郭の規模は東西70m×南北60mほど、基本的に物見砦、あるいは有事の際「避難郭」として利用されていたと推測されます。

 築城時期・築城主体ともに不明。『会津鑑』「山ノ頂に在り岩谷城と号す。東西四十二間 南北三十一間 内に井水あり。山高さ南西六十間、北八十間、東一方九々折ノ岩路あり。明徳元年庚午葦名氏之臣 井上氏築いて代々茲に住す。弘治、永禄之頃は松本図書が預りにて河内と云ふ者住して、永禄元年戊午山ノ内摂津俊政此人は山ノ内下野守季基 二十代治部太輔俊清之二男 若名次郎介横田より茲に来りて河内を殺害して押領す。然るに高山にして不自由なり。仍て城の南に三階ノ平地あり。東西四十間 南北百間井水沢山あり。此所に舘を築いて常に住す。中ノ平地東西四十二間 南北二十四間上ノ平地迄高さ十八間あり。此の所に家臣を居らしむ。下ノ平地 東西三十間 南北八十間 中ノ平迄高さ十二間麓ノ平地より下ノ平地まで高さ十四間あり、此所に下人ども住す。今雑木林にして段平と号す。或るは畑と成り四方要害あり。北に藤沢大峡り南に水車峠切り伏せ瀧谷川西に駒鳴瀬大峠あり。俊政嫡子 内匠頭俊基と云ふなり」と記されています。『会津鑑』によると岩谷城は明徳元(1390)年、会津黒川城主 蘆名氏の家臣 井ノ上某により築かれたとされ、戦国期 会津蘆名氏の重臣 松本氏の属城として井上氏が在城していたと伝えられます。永禄元(1558)年、伊北郷横田中丸城主 山内俊清の次男 摂津守俊政と三男 豊前守俊範兄弟が金山谷岩谷城を不意に攻撃して城代 井上河内守を討ち取り、岩谷城を武力占拠する事件が勃発します。この頃、岩谷城は蘆名氏の宿老 松本図書舜輔が預かっていたもので、この件は直ぐに蘆名修理大夫盛氏に報告され、盛氏は俊政、俊範兄弟の討伐を決めました。しかし黒川城内に詰めていた横田山内一族の沼沢出雲守実通(沼沢丸山城主)のとりなしにより討伐は取りやめられ、俊政は蘆名氏の家臣として岩谷城主となります。この事件の背後には、天文12(1543)年の「横田崩れ」以降の横田山内氏惣領支配の崩壊があるようですが、詳細な経緯は不明。俊政のあとを継いだ嫡子の内匠頭俊基は天正17(1589)年の「摺上原の戦」で蘆名勢に加担して出陣したものの討死し、子孫は「奥州仕置」後 帰農して近世には滝谷村の郷頭職をつとめたとされます。岩谷城「奥州仕置」後、廃城になったものと思われます。
歴史・沿革
岩谷城 南側からの遠景
メモ
会津蘆名領の「境目の城」
形態
山城
別名
 ・・・・・・・・・
遺構
郭(平場)・土塁・虎口
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成19(2007)年11月1日
岩谷城は滝谷地区の北方、滝谷川沿いに屹立した丘陵上に築かれた山城です。(写真左上) 滝谷地区は中ー近世を通して会津黒川と奥会津伊北郷を繋ぐ旧伊北街道の伝馬宿で、現在もそれらしい雰囲気のある集落です。(写真右上) でっ、城へは滝谷地区の北側から旧伊北街道に入ります。(写真左) でっ、旧道をしばらく進むと木戸口と思われる切り通しが現れ(写真左下)、じきに番所を兼ねた岩谷城二の郭に辿り着きます。(写真右下)
二の郭(写真左上) 岩谷城の東側下の平場。南東方向に延びた稜線を加工したもので、稜線の北側を土塁状に削り残し(写真右上)、中央に旧伊北街道の木戸口が設けられています。(写真右) ま 〜〜〜、旧伊北街道を扼する関所の機能があったのでしょう。
でっ、管理人は二の郭から主郭へアプローチしましたが、明確な道はなく、ほぼ垂直の岩盤剥き出しの斜面を攀じ登ることを強いられました。(写真左下・右下)
でっ、急斜面を登りきると岩盤を砕き切ったと思われる木戸口?にでます。(写真左上) 自然にできたとは考えられず、人為的なものなのでしょう。木戸を過ぎたあと、導線はクランクして狭い通路で主郭に繋がっています。(写真右上)
主郭(写真左) 規模は東西70m×南北60mほど、西側に段郭が敷設され(写真左下)、基本的に物見、あるいは有事の際の短期的な「詰郭」として利用されたのでしょう。でっ、内部に滝谷山内氏の子孫の方が建立したと思われる城址碑もあります(写真右下)
秋田の中世を歩く