丸 山 城
福島県大沼郡三島町桧原字上峠
立地・構造
 丸山城は只見川中流域の右岸、通称 丸山(標高465m 比高190m)に築かれた山城です。城の規模は東西200m×南北700mほど、城縄張りは山頂ピークに構築された主郭を中心に南北に延びた稜線に展開されています。主郭の規模は20−30m四方ほど、北側の急斜面を小郭群と堀で切り刻み、また南側稜線は段郭群と堀切で加工されています。北側中腹に比較的 規模の大きい平場が見られ、また北側斜面は自然地形を利用したと思われる大堀切で切られています。大手筋は北麓からのルートが想定され、北東麓の段丘上に日常居館と推測される「春日野居館」が設けられていたようです。また搦手は主郭から南側に延びた稜線が想定され、この方面の稜線鞍部に設けられた旧伊北街道 駒啼瀬峠に繋がっています。同地は会津盆地から金山谷に入る谷口に位置します。

 築城時期・築城主体ともに不明。もともと横田山内氏が会津口の抑えとして築いたと伝えられます。永禄元(1558)年、伊北郷の横田中丸城主 山内治部大輔俊清の次男 摂津守俊政と三男 豊前守俊範が金山谷岩谷城を不意に攻撃して城代 井上河内守を討ち取り、岩谷城を武力占拠する事件が勃発します。この際、岩谷城は会津黒川城主 蘆名修理大輔盛氏の宿老 松本図書舜輔が預かっていたため、この件はただちに盛氏に報告され、盛氏は俊政、俊範兄弟の討伐を決めました。しかし黒川城内に詰めていた山内一族の沼沢出雲守実通のとりなしにより討伐は取りやめられ、俊政は蘆名氏の家臣として岩谷城主に取り立てられ、また俊範も桧原丸山城主 山内淡路守俊景の養子となりました。そして桧原山内氏は滝谷山内氏とともに蘆名氏の支配下に組み込まれ、天正17(1589)年の「摺上原の戦」では蘆名方として出陣しています。戦後の桧原山内氏に消息は不明。同18(1590)年の「奥仕置」後、会津に入封した蒲生氏が丸山城を使用した形跡はなく、この頃 廃城になったものと思われます。なお『会津古塁記』檜野原村丸山城 駒鳴セ峠之内 本丸東西十六間 南北十三間 二丸東西七間半 南北八間半 築人不知永禄之頃 淡路守平俊景と云者八十歳にして女子一人有 瀧谷俊政之弟横田備前俊範 婿として永楽銭八十貫文之地を譲る常住所麓 春日原に築舘住 東西百八間 南北三百六間俊範子孫也」と記されています。
歴史・沿革
丸山城 北側稜線の堀切
メモ
「山内七騎党」 桧原山内氏の「要害」
形態
山城
別名
 檜野原丸山城
遺構
郭(平場)・虎口・堀
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成19(2007)年11月1日
丸山城は只見川中流域の東岸、桧原地区南側の南北に延びた稜線に築かれた山城です。(写真左上ー東側からの近景 写真右上ー北東側からの遠景) でっ、北麓の段丘上に「春日野居館」と呼ばれる館が設けられ、丸山城はこの「詰城」とされます。でっ、城山へは特に道はなく、管理人はとりあえず北麓から直登し、しばらく登ると 稜線は延々と続く急斜面となります。(写真左) さらに急斜面を登り切ると2−3段の郭らしき平場が見られます。(写真左下) でっ、この郭群の南側に10m以上 切り落とした大堀切が見られます。(写真右下)
でっ、堀切を登り切ると上部は広い平場になっていて(写真左上)、先端に櫓台と思われる土壇が築かれ、周囲に投石用と思われる手頃な石塁が散らばっています。(写真右上) ま 〜〜〜、大手筋を守備する前衛陣地だったのでしょう。でっ、平場の中央に南北に走る堀らしき窪地が見られ、内部は東西の2郭に分割されていたのでしょう。(写真右) さらにこの平場から稜線尾根を辿ると尾根は徐々に斜度を上げていき(写真左下)、稜線上に いくつかの小郭と堀切が敷設されています。(写真右下)
(写真左上) 北側稜線の堀切
でっ、最後は岩盤剥き出しの斜面を攀じ登り、主郭に辿り着きます。(写真右上) 主郭の規模はたぶん ・・・・・、20−30m四方ほどあるでしょうか、ま 〜〜〜、雑木が酷くハッキリしませんが ・・・・・。(写真左) また雑木のせいで眺望もまったく効きません。主郭の南側稜線は高さ3−5mの段差で2段の段郭に加工され(写真左下)、さらに段郭の南側に鞍部を挟んで副郭が設けられていたようです。(写真右下ー鞍部)
副郭(写真左上) 主郭の南側に位置する南北に細長い郭。尾根道はそこそこ歩きやすいのですが、郭内部は藪々になっています。なお南側稜線は堀切で遮断され(写真右上)、たぶん ここで丸山城は完結しますが、ここからさらに南側稜線に旧伊北街道の木戸口が設けられていたようです。
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