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宮津城は宮津湾の南岸、大手川右岸の微高地に築かれた近世平城です。城の規模は東西500m×南北250mほど、城縄張りは宮津湾に面した微高地に本丸を築き、本丸の南ー東側をカバーするように二の丸を配し、さらに本丸と二の丸の東ー南ー西側を三の丸で囲った梯郭式縄張りで構築されていたよう |
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です。そして大手川を西側の濠とし、二の丸・三の丸間は内濠で画し、三の丸は外濠で囲まれていました。三の丸の虎口は南西端と東側中央に設けられ、どちらも桝形虎口が採用されていたようです。現在、城址は市街化されているため遺構は存在していませんが、馬場先御門の太鼓門が移築されています。
天正6(1578)年、織田信長の命を受けた細川兵部大輔藤孝、明智日向守光秀は丹後に侵攻して、丹後国守護職 一色左京大夫義道を自害に追い込み丹後を平定しました。この功により藤孝は丹後一国を与えられ、同8(1580)年 田辺城・宮津城を築いて本城 宮津城に嫡子の越中守忠興を入れ、自身は田辺城に入城しました。天正10(1582)年の「本能寺の変」で明智光秀が謀反により織田信長を自害に追い込むと、光秀は藤孝に協力を要請しましたが、藤孝は光秀には与せず 羽柴秀吉に与力しました。慶長5(1600)年の「関ヶ原」時、忠興の関東出陣中に宮津城は西軍の福知山城主 小野木縫殿助重勝の攻撃にさらされ、このため藤孝は宮津城を放棄して田辺城に籠城しました。戦後、忠興は「関ヶ原」の軍功により豊前国中津に転封し、丹後には京極丹後守高知が入封しました。入封当初、高知は田辺城を本城としましたが、元和8(1622)年 高知が死去すると遺命により嫡子の丹後守高広が宮津城に入城し、荒廃した宮津城を大改修したとされます。その後、京極氏は三代 丹後守高国の代に改易となり、その後 城主は永井氏 - 阿部氏 - 奥平氏 - 青山氏とめまぐるしく変わります。そして宝暦8(1759)年、本庄伊予守資昌が遠江国浜松から宮津に入封し、本庄松平氏が「明治維新」まで在城しました。 |